水月昭道さんの『アカデミア・サバイバル』(中央公論社,2009年)の225頁に,次のような文章があります。「高学歴ワーキングプア問題は,…(高額の学費を出せる)金持ちが,道楽をやった挙げ句に失敗した,という程度にしかみなされない」。
博士課程に行くということは,30歳近くまで働かないことを意味します。その間,生計を維持し,さらには大学にかなりの額の学費を納めるのですから,博士課程まで進む院生の家庭というのは,さぞ裕福なのであろう,と世間の人が考えても不思議ではありません。
水月さんが嘆いているように,無職博士問題は当人の自己責任,彼らに何らかの公的な支援をするなどもってのほか,という見方が強いようです。その根底には,博士課程まで子どもをやれる家庭というのは,富裕層なのであるから,放っていても大丈夫であろう,という考えがあるのかもしれません。
日本学生支援機構は,2年おきに,学生生活調査を実施しています。そこでは,大学生や大学院生の家庭の年収について調査されています。最新の2010年度調査の結果はまだ公表されていませんので,2008年度調査の結果を引くと,大学院博士課程の学生の家庭の平均年収は746万円だそうです。
http://www.jasso.go.jp/statistics/gakusei_chosa/data08.html
これは平均値ですが,私は,上記の調査データをもとに,100万円刻みの分布をとってみました。博士課程の学生の家庭と,大学昼間部(以下,学部)の学生の家庭とを比べてみます。
まず最頻値(Mode)をみると,学部学生は800~900万円の階級に,明らかな山があります。博士課程の場合,中層部に,このような目立った突出はありません。その分,下層部に多く分布しています。年収400万未満の家庭は,学部では全体の13%ですが,博士課程では28%もいます。後者では,学生の4人に1人が,こうした低収入層である,ということです。
再び平均値に返ると,学部学生の家庭は822万円です。博士課程院生の家庭の平均年収は,それを下回っています。ちなみに家庭の平均年収は,学部が822万円,修士課程が810万円,博士課程が746万円,というように,上に行くほど低くなるという現象がみられます。
これは,設置主体の構成の違いによるものだ,といわれるかもしれません。学部では大半が私立ですが,修士課程や博士課程では国公立が大きなシェアをしているのは確かです。そこで,設置主体ごとに分けて,同じ比較をしてみました。
国公立だけでみても,博士課程院生の家庭の年収が最も低くなっています。学部と修士課程はほとんど同じですが,博士課程になると年収がガクンと落ちるのです。逆に,私立では博士課程の値が最も高いようです。学部<修士<博士,という傾向もあります。ですが,博士課程では,私立の院生は全体の4分の1ほどしかいません。よって,全体的な傾向には,マジョリティーを占める国公立のそれが反映されています。
相対水準でいえば,博士課程の学生は,学部学生よりも貧しいようです。「博士課程の学生=金持ちの道楽者」というイメージは,統計からは,必ずしも支持されません。一昔前ならそうであったのかもしれませんが,博士課程の学生が著しく増えた(増やされた)今日では,彼らの多くが普通もしくはそれ以下の階層の子弟であることがうかがわれます。
苦境の中で生きてきた者ほど,それを科学の力で告発する学問に関心を持つ,という趣旨のセンテンスを何かの本で読んだ覚えがあります。博士課程には,こういうハングリーな学生もいることでしょう。
しからば,30歳近くまでの間の生活費や学費をどうしているのかというと,彼らの多くは奨学金を借りています。博士課程の学生なら,月に12万円が貸与されます(第1種奨学金)。これなら,少しのバイトをすれば何とか暮らせます。また,有利子の第2種も併せて借りれば,月に20万円ほど借りることも可能です。博士課程の院生の多くは,このような苦肉の策を講じて,何とかやっている,というのが実情でしょう。ちなみに,2008年度の博士課程院生の奨学金受給率は64.3%だそうです(日本学生支援機構)。
ですが,この奨学金は給付ではなく貸与です。博士課程修了(退学)後,3~5年の猶予期間の間に正規の研究職に就けなかった場合,悲劇が到来します。総額600万円ほどの借金を,なけなしの収入の中から返済することになります。月に3万円ペースで返す場合,およそ16~17年かかります。かくいう私も,毎月,かなりの額の返済をしています。毎月の末,ドカーンと残高が減った通帳を見るのが辛いのです。
4月4日の記事において,現在の無職博士数は7万2千人ほどではないかという推計をしました。先ほどの64.3%という奨学金の受給率を乗じると,だいたい4万6千人ほどが,莫大な負債を抱えた「シャッキング」であることになります。今後,この数はますます増えていくでしょう。彼らの多くが普通の階層の人間であることはいうまでもありません。
このような状況が認識されてきたのか,生活困窮などの理由で奨学金の返済が猶予されるための基準が,最近,やや緩和されたと聞きます。当局には,ますますのご高配を賜りたいところです。