ページ

2012年3月19日月曜日

私の好きな本②

昨年の12月23日の記事では,私の好きな本①として,松本良夫先生の『図説・非行問題の社会学』をご紹介しました。今回は,その②として,エミール・デュルケムの『教育と社会学』を取り上げようと思います。

 デュルケムはフランスの社会学者で,教育社会学の祖と仰がれる人物です。広い額,くぼんだ目,あご髭・・・松本先生とちょっと似ているような気がします。

 『教育と社会学』は,厳密には,この人物の著作ではなく,未刊の講義録です。弟子のフォコネらが編集したとされています。この本は,教育社会学の基本文献中の基本文献です。「教育とは,成人世代が子ども世代を組織的・体系的に社会化することである」という,有名な教育の社会学的定義も,本書でいわれているものです。

 本書は,佐々木交賢教授による翻訳で読まれることが多いようですが,私は仏語の原書で読みました。むろん,無精者の私が自発的にこのような難行を選択したのではありません。きっかけを作ってくださったのは,原聡介先生です。学部4年時の「教育外書講読(仏語)」という授業で,原先生がテキストとして取り上げてくださったのです。

 この授業は学部生対象のものですが,机を囲んだのは,私を除いて大学院生の先輩ばかりでした。でも,一応は学部生対象の授業なので,テキストを決める際,原先生も先輩方も,私の希望を聞いてくださったのです。

 「君,どの分野を勉強するつもりなの?」,「教育社会学です」,「あ,そう。じゃあ,テキストはこれだな」。原先生は表情も変えずに,原書を机の上にポンと出されました。表紙には,"Education et Sociologie"という仏文のタイトル,"Emile Durkheim"という著者名が記されています。まぎれもなく,デュルケムの『教育と社会学』の原書です。

 授業は,私が訳案を提出し,皆でそれを検討する形で進められました。原先生や先輩方は,私が出すデタラメ三昧の訳に呆れながらも,どこがおかしいのか,どこをどう直したらよいのかを懇切丁寧に教えてくださいました。原先生は訳に対しては大変厳しい姿勢を示され,原文に忠実かつ筋の通った訳文ができ上がるまで,先に進ませてくれません。少しでも誤魔化しまがいの意訳をしたりすると,容赦なくカミナリが落とされます。

 フランス語には指示代名詞が多いのですが,「この"en"は何を指すのか,この"elle"は何を指すのか」などと厳しく追及され,皆で頭を抱えては,議論が延々と続きました。

 こんな感じですから,一回の90分の授業で半頁も進まないこともありました。しかし,このように原文を緻密に読み込んだ後で,既存の翻訳に目を通してみると,「?」と思う箇所がちらほら目につきます。このことを報告すると,原先生は,「そうだろう。だから,他人がやった翻訳に頼ってばかりではいけないのだよ」とおっしゃいました。目からウロコでした。

 結局,一年間の授業で15頁ほどしか読めませんでしたが,「残りは自分でやってみなさい」という命を受け,私は丸善で原書を購入しました。それを,大学院修士課程の2年の間に全訳した,という次第です。このような勉強の重要性を教えてくださった原先生には,本当に感謝しています。

 昔話が長くなりました。私が購入し,翻訳に使った原書の写真をお見せします。


 相当使い込んだので,もうボロボロです。原書を痛めないように,コピーを取ってやればよかったのかな。でもまあ,原書をとことんしゃぶり尽くしたのだなと,よい思い出の象徴でもあります。

 本書の中身ですが,最初にフォコネのイントロ(解説)が置かれ,その後に4つの章(Chapitre)が設けられています。

 第1章 教育,その本質と役割
 第2章 教育学の本質と方法
 第3章 教育学と社会学
 第4章 フランスにおける中等教育の進展と役割

 この中で,とくに重要な内容を含んでいるのは第1章であると思われます。先に述べた,教育の社会学的定義も,この中に含まれています。当該箇所の頁をみてみましょう。


 右頁の2パラグラフ目のイタリックで書かれている部分が,デュルケムによる,かの有名な教育の社会学的定義の原文です。訳すと,こうでしょうか。

 「教育とは,まだ社会生活に慣れていない世代に対して,成人世代が働きかけるところの行為である。その目的は,子どもの内に,政治社会全体,とりわけ彼が属することになる社会階層で求められる,一定の身体的,知的,道徳的状態を据え付けることである」。

 全体社会が求める資質と同時に,当人を直にとりまく部分社会が求める資質を子どもに据え付けることが,教育の目的である,と説かれています。

 別の箇所でいわれていますが,社会は,成員の間にある程度の同質性がないと存続できません。教育は,協同生活に不可欠な同質性を子どもに据え付けることで,社会の存続を確かなものにします。ですが,ある程度の多様性なくしては,そうした協同は不可能です。同じことをする人間ばかりでは,分業は成り立ちません。教育は,それ自身が多様化し,専門分化することで,成員の多様性を担保する,といわれます。

 上記の原文と対応させると,政治社会全体が求める資質は同質性,各人が属する社会階層が求める資質は多様性ということになるでしょう。今風にいうと,前者は一般教育,後者は専門教育で教授される資質です。社会の維持・存続という点からも,双方のバランスが重要であることが知られます。

 デュルケムの定義は,「教育とは,子どもの内に潜在する可能性を引き出す」というようなものとは違い,社会的な観点を前面に出した,まさに社会学的なものです。上記の原文は,教育社会学徒であるならば,諳んじることができるようになるまで,何度も繰り返し読み込んでおいて損はありますまい。

 最近,アウトプットを出すこと(原稿やブログの執筆)にばかり精を出して,インプットを得ること(読書)が疎かになっている状況です。学生時代のように,じっくり腰を据えて,古典を読むこともなくなりました。これではいけません。原先生,こんな私を厳しく叱ってください。あの時の授業のように。