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2012年8月14日火曜日

教員にとっての夏休み

 8月も中旬,夏休みの最中ですが,みなさま,いかがお過ごしでしょうか。お盆ですので,郷里に帰省されている方も多いと思います。私は普段とまったく変わらず,自宅でこうしてブログを書いています。「ツマラナイ」人です。

 さて,学校の先生方は,夏休みをどう過ごされているのでしょうか。現在に目を向ける前に,タイムマシンで昭和初期の頃にまでワープしてみましょう。1927年(昭和2年)の7月21日の東京朝日新聞に,「教師と夏休」と題する投稿記事が載っています。


 左側に物騒なタイトルの記事が写っていますが,ここで取り上げるのは右側の記事です。要所を引用します。

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教師と夏休

夏休みに,児童に宿題を課すか否かが,先日の本欄で論ぜられたが,私はその文を読みながら休養の必要は,児童と同様に先生方にも大いにあるのではないかと思つた。

 小学教師は,余りに過労しはしないか。私も尋常の1年の児童を子に持つ父ですが,子供の話によると,先生方の一日の仕事は,相当に骨が折れるらしい。

 1学級60人からある児童を責任をもつて教育することは,並大抵の仕事ではない。それに,先生には教案を作って校長の検閲を受けるとか,授業料の徴収などの雑務が少なくない。

 かくも平静において多忙である先生方が,盛夏の1ヶ月を,山海にこう然の気を養ふとか,旅行によつて社会の実相を見ることは非常に必要な事ではないでせうか。

 夏休みになると,いづれの郡にも夏季講習が開かれて,先生方の知識を肥やすべく,都会の学者が講師としてやつてくる。然し,その講ずる所は,千ぺん一律の概念論で,先生方の血となり肉となるものとも思はれぬ。
(中略)
夏休みは,児童と先生を黒板とチョークの世界から,全然解放すべきだ。先生方も児童の如く山に海に心身をたん練し,教権奪還の意気を養はれては如何でせう。
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 投書の主は,小学校1年生の子を持つ父親のようです。学期中の多忙に加えて,夏休みも夏季講習とやらに引っ張り出される教員に対し,保護者の立場から同上の念が綴られています。

 昔の教員は,夏休みに夏季講習というものを受けていたのですね。形態は,学者の講話を聴くというもの。何やら,現在実施されている教員免許更新制を思わせる制度です。

 それはさておいて,投書の主は,この夏季講習の効果に対して懐疑的な見方を示しています。学者が講師としてやってくるが,「その講ずる所は,千ぺん一律の概念論で,先生方の血となり肉となるものとも思はれぬ」と,なかなか手厳しい。

 これは一児童の保護者の意見ですが,講習を受ける教員の中にも,腹の底ではこういうことを考えている輩が多かったのではないでしょうか。

 なお,夏季講習を実施する側も,この制度をよくは思っていなかったようです。時代をちょっと上った,1913年(大正2年)の8月2日の東京朝日新聞に,西山悊治という教育学者の筆になる「強制修養の悪講習会」と題する記事が載っています。夏季講習会の講師として度々招かれた経験に依拠したものです。

 冒頭にて,「所謂大家を招いて盛んな講習会を催すけれど遣り方が拙いので結果は思はしくなく,悪講習会となつて我教育界に於ける厭ふべき流行病の一つになつて居る」と断じられています。

 講習会の光景はどういうものかというと,「教員の3割以上は居眠り」をはじめ,講演後に「質問に来る教員は3,4百人の教員中僅々2,3名」。講習会に出てくるのは,「監督者,視学,校長等に対する役目,教育社会に於ける世間並の義務的交際と心得て,斯く顔だけ見せるのであらう」と見受けられる。受講者に熱心さがないのは,「当路者があまり義務講習といふ様に強制がましくする」ためではないかと思われる。

 このような経験を紹介した上で,西山氏は,この「悪講習会」の欠点として,6つを指摘します,私なりに翻訳させていただくと,以下のごとし。

①体裁を重んじ,大家を招いて高遠な学理を講じさせるのは悪い。空理空論は役に立たない。
②大家への礼金,旅費・滞在費は高くつく。このために薄給の小学教員の負担を重くするのは罪である。
③名士大家の名に眩惑され,講演内容の吟味もせずに招致することが存外の結果を招く。いわゆる「講習屋」は1日に4,5時間も講演するから,自然に内容が浅薄になる。
④講習を強制するから,せっかくの夏休みだというのに,教員が心身の休養をとれない。
⑤短い講習期間に,開会式,閉会式,授与式,茶話会,懇話会となどいう祭り騒ぎは止めよ。
⑥5日や10日の講習を受けた者に講習証書が授与されるが,これが100枚あったところで何の役に立つか。欧米の大学のように,試験をして成績を証明すべき。

 むーん。⑤と⑥は保留として,それ以外の指摘はなるほどなあ,と思わせます。とくに④は,冒頭で紹介した,保護者の投書記事の意見とも重なるものです。

 さて,タイムトリップはくれくらいにして,現在に戻ってきましょう。2012年現在では,夏季講習という制度はなくなっていますが,教員免許更新制というものが設けられています。教員免許状(普通免許状)に10年間の有効期限を付して,期限が切れる前の2年間に,30時間以上の講習を受講することを義務づけるものです。主に大学において,長期休業期間を使って実施されます。
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/koushin/001/1316077.htm

 この夏休み中に,大学まで足を伸ばして,教員免許状更新講習を受けておられる先生方も多いことでしょう。その姿は,戦前期において夏季講習を受けていた教員らの姿を彷彿させます。

 昔の夏季講習の評判が芳しくなかったことは,上でみた通りですが,それの現代版とでもいうべき,教員免許更新制については,どう考えられているのでしょう。文科省の『教員の資質向上方策の見直し及び教員免許更新制の効果検証に係る調査』では,現場の教員に対し,教員免許状更新制の効果について尋ねています。
 http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/sankou/index.htm

 6つの観点からこの制度を評価してもらったところ,以下のような回答分布が得られたそうです。


  緑色と紫色は,否定的な回答のシェアを表します。悲しいかな,どの項目でも,この2色が結構な幅をきかせています。とくに否定的な回答の率が高いのは,「自信と誇りの高まり」と「教員に対する信頼・尊敬の念の高まり」です。前者については6割,後者について7割の教員が,否定的な見解を寄せています。

 上記サイトによると,教員免許更新制は,「教員が自信と誇りを持って教壇に立ち,社会の尊敬と信頼を得ること」を目的の一つとしています。しかし,現実は上図のごとし。むしろ,講習を受けることで教員としての自尊心が傷ついた,という体験談もあります(喜多・三浦編『免許更新制では教師は育たない』岩波書店,2010年,頁は失念)。これまで実践を積んできたのに,急に初心者(赤子)扱いされることに屈辱を感じる,ということでしょう。

 この点については,先ほど取り上げた大正初期の新聞記事にて,西山氏も言及しています。曰く。「講習会を催さなくては教員が修養せず,又時代に遅れるといふのならば,実に心得ぬ低能訓導達である。若し之に反して教員が平素修養して居るのに,当局者が修養を強制するものであるとすれば,天下の教育家を愚弄侮辱するの甚だしい仕打であると謂はねばなるまい」。

 この指摘は,100年の時を経た現在においても,そのまま通じるかと思います。7月17日の記事でみたように,教員らは,他の専門職に比して,自発的な学習を行っています。教員は「平素修養して居る」のです。しかるに,この10年間にかけて,教員の自主的な学習行動実施率は低下しています。これには,強制的な修養としての免許更新制が導入されたことも,一役買っていることと思われます。西山氏の指摘の伝でいうと,教員らに対する「愚弄侮辱」です。

 免許更新制によって教員の自尊心が高まらない,むしろその逆の結果になるというのも,さもありなんです。喜多氏・三浦氏の編著のタイトルをそのまま借用して,私も言いたいと思います。「免許更新制では教師は育たない」と。

 冒頭で紹介した,昭和初期の投書記事でいわれているように,教員の夏休みは,「山海にこう然の気を養ふとか,旅行によつて社会の実相を見ること」に使われるべきではないかと思います。教員をして,「黒板とチョークの世界」から解放すべきです。

 学期中とは違った日常を味わうこと。そのことが,教員の幅を広げ,現代の教員に求められる「総合的な人間力」の涵養にも資することになるかと存じます。強制された修養は,学期中の日常の延長以外の何ものでもありますまい。

 夏休みも後半にさしかかりました。私も,学期中とは「違った」日常に触れようと思います。こうやって,自宅でブログを書いているだけというのは何とも寂しい。