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2013年9月26日木曜日

明治中期の学齢人員の組成

 昨日は,夕方の授業までの間,国会図書館に行ったのですが,職員さんにスゴイことを教えられました。著作権の保護期間が過ぎた明治期の官庁統計のほんとんどは,全文がネット公開されており,自宅でも閲覧できるとのこと。

 国立国会図書館の蔵書のデジタル化が進んでいるとは聞いていましたが,館内だけでなく,自宅でみれる資料も多くなっているとは。いやはやスゴイ。

 下の写真は,自宅のパソコンで映し出した,明治25年の『文部省年報』の一部です。学齢人員の就学状況の統計です。


 9月9日の記事では,明治23年の学齢人員の不就学者率を出しました。不就学者とは,卒業を待たずして小学校を辞めた中退者と,一度も小学校に通ったことがない未就学者の合算です。

 しかるに,明治25年以降では,未就学の理由ごとの人数も計上されています。今回は,明治25(1892)年の断面に注目して,学齢人員(6~14歳)の組成がどうであったかを,より仔細に明らかにしてみましょう。明治19年の諸学校令による近代学校体系樹立の6年後ですが,小学校への就学が期待されていた学齢人員のすがたは如何。

 私は,この年の学齢男女について,①就学,②中退,③未就学(貧窮による),④未就学(疾病による),⑤未就学(其他の理由による),の構成を明らかにしました。結果を面積図で表現します。


 男女とも就学が最も多くなっていますが,調査時点において小学校に通っていない不就学者も結構いたようです。女子では,貧窮という理由での未就学者が3割もいました,貧窮と疾病以外の理由による未就学率は約2割。これは,親の無理解などでしょう。

 農業社会で機械化も未進行であった当時にあっては,子どもといえど貴重な労働力でした。また,この頃はまだ,小学校でも授業料が徴収されていました。こういうことから,子を学校にやれない,ないしはやるのを嫌った家庭が多かったであろうと思われます。時代をもっと上がった明治初期では,民衆による「学校焼き討ち」が各地で頻発していたこともよく知られています。

 次に,地域別の統計もみていただきましょう。下の図は,都道府県ごとの構成比を表した帯グラフです。男女で分けています。


 男子は,沖縄を除いてどの県でも就学率が半分を越えていますが,女子はさにあらず。ほとんどの県で,赤枠の不就学者の比重が大きくなっています。

 学齢女子の就学率は,鹿児島では12.8%,沖縄では6.1%に過ぎません。代わって,これらの2県では,家庭の貧窮という理由での未就学者が6割以上もいたことが知られます。へえ,この辺りは,教育史の教科書に載っている全国統計からは分からないことだなあ。初めて知った。

 上図の青色は,小学校に通っている就学者の領分ですが,ジェンダー差が大きいですね。「女に学校(学問)はいらん」という考えの表れでしょうが,その程度は地域によって一様ではないようです。

 私は,男子の就学率が女子の何倍かを計算してみました。全国統計でいうと,先ほどの面積図から分かるように,ちょうど2倍です(71.7/36.5 ≒ 2.0)。しかし,県ごとにみると,値は大きく変異します。下のジェンダー倍率地図をご覧ください。


 北東北や南九州では,学齢子女の就学率のジェンダー差が大きかったようです。鹿児島では,実に5倍もの開きがありました(男子63.7%,女子12.8%)。私の郷里ですが,「・・・」という感じです。今から120年前の統計ですが,「男尊女卑の県」という通説,さもありなん?

 以上が,明治中期の断面でみた,6~14歳の学齢人員のすがたです。今でこそ,学齢の子どものほぼ全員が義務教育学校に就学していますが,昔はそうではなかった。また,性や地域によるバリエーションもきわめて大きかった。このことを押さえておきたいと思います。

 さて,昔の『文部省年報』が自宅で見放題ということが分かったので,戦前期の教育現実の発掘作業にも力点を置こうと思います。

 今度は,学齢が終わった後の進路分化の様相を明らかにしてみたいな。戦前期は複線型の学校体系でしたが,中学校,高等女学校,実業学校,師範学校など,多様な中等教育諸機関への配分構造はどうであったか。

 当時の資料は充実しており,入学者の家庭の職業なども知ることができるので,出身階層ごとの傾向も分かります。師範学校に入った者,すなわち教員を志したのはどういう階層の子弟であったか,という問題を追及することだってできます。

 さらに,中学校,高等学校を経て,最高峰の帝国大学まで上りつめることができたのは,同世代のどれほどだったか,という点も知りたい。

 原資料を自宅で思う存分見れる。この恩恵は,一部の研究者だけではなく,万人に開かれています。せいぜい活用しようではありませんか。