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2015年4月8日水曜日

大学教員の研究時間の減少

 昨日の日本経済新聞Web版にて,大学教員の研究時間の減少が報じられています。現場の人間が日ごろ思っていることが可視化されたわけですが,こういう実態が世に知れ渡るのは結構なことだと思います。
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG07H80_X00C15A4CR8000/

 記事で引用されているデータのソースは,文科省「大学等におけるフルタイム換算データに関する調査」です。5年おきに実施されている調査で,大学教員等の研究者の職務時間が詳細に明らかにされています。
http://www.mext.go.jp/b_menu/toukei/chousa06/fulltime/1284874.htm

 上記の記事では,大学教員の研究時間の減少がいわれているのですが,一口に大学教員といても,いろいろな属性があります。教授と若手では様相は異なるでしょう。国立と私立,文系と理系・・・こういう違いも見逃せません。

 全体分析の後にくるべきは,層別の分析です。研究時間の減少が著しいのは,どの層か。こういう問題を考えてみようと思います。

 冒頭の記事のおさらいになりますが,まずは大学教員全体の変化を概観することから始めましょう。大学教員の年間職務時間は,2008年が2793時間,2008年が2920時間,2013年が2573時間というように推移しています。

 この5年間で減っていますが,年間2573時間というのは,一般の労働者よりもかなり長いと判断されます。2013年の「毎月勤労統計調査」から推計される,全産業の常用労働者の年間勤務時間は1746時間です。

 誤解されがちですが,大学のセンセイは働いているんすよ。週2~3日大学に来るだけで,あとは遊んでいるなどといわれますが,さにあらず。自宅でいろいろな書類を書いたり,原稿を書いたり,授業の準備をしたり・・・もちろん,研究も重要なタスクです。5月のGWはどこに行こうかと計画を練っている方が多いと思いますが,大学教員にとっては貴重な「稼ぎ時」です。たまった雑務を片づけたり,滞っていた研究を進めたりと。遊びに行こうなんて考えている人は,少ないんじゃないかなあ。

 ちなみに本調査では,勤務時間ではなく,職務時間という言葉が使われています。仕事とプライベートの境界があいまいな大学教員の性格を物語っているといえるでしょう。

 さて問題は,この職務時間の中身がどう変わったかです。ここでは研究に焦点を当てますが,他の要素についてもみておきましょう。文科省の調査では,教育,研究,社会サービス,その他という4カテゴリーが設けられ,各々の年間平均時間が集計されています。

 それぞれの変化をグラフにしてみました。左側は年間平均時間の折れ線グラフ,右側はこの4つの内訳を帯グラフにしたものです。


 大学教員は研究者ですので,研究時間が最も長くなっていますが,この10年ほどで減っています。代わって,社会サービスが増えてきています。講演や産学連携などでしょう。

 意外なのは,「その他」が減っていることです。学内業務等のいわゆる雑務ですが,統計上は減少しているのですね。最近,シラバスの電子化や自動出席管理システムなどが導入されていますが,こういうICT技術の恩恵ゆえでしょうか。

 右側は4つの比重図ですが,注目すべきは,赤色の研究時間の部分です。2002年では全体の46.5%を占めていましたが,2013年では35.0%にまで減少しています。昨日の日経記事で強調されていたのは,このことです。

 では,この研究時間にスポットを当てましょう。注目点は,大学教員のどの層で研究時間の減少が著しいかです。私は,文科省調査の原資料から,設置主体別,職階別,専攻分野別の年間研究時間のデータを採取しました。

 下の表は,各年の数値をまとめたものです。2013年の助手は助教と読み替えてください。上段は年間の平均研究時間,下段は職務時間全体に占める比率です。


 研究時間の長さは,「国>公>私」となっています。職階別では,双六を上がった教授よりも,これから昇進の審査に晒される若手で長くなっています。文系と理系では,やっぱり後者ですね。下段の比重も,おおよそ同じです。

 右欄には,2013年と2002年の差分を掲げていますが,値は軒並みマイナスです。層を問わず,この10年あまりで大学教員の研究時間は減っている,ということです。

 しかし,その幅にはバリエイションがあり,職階別でみると,一番下の助手(助教)では576時間も減っています。比重の減も顕著で,55.8%から40.8%へと,15ポイントも下がっています。あと研究時間の減少が目立つのは,比重でみて,私大や理系の教員です。

 大学教員が多忙化し,研究の時間がとれない。よくいわれることですが,データでもそれは支持されます。このことは,各人の研究者としての自我を傷つけ,わが国の総体としての知的体力低下にもつながる,という問題をはらんでいます。

 といっても,大学の大衆化が進んでいるということは,教員の大衆化も進んでいるということ。大学本務教員の数は,1960年では4万人ほどでしたが,2014年では18万人にまで膨れ上がっています。この中には,研究よりも,教育や各種の社会サービスに己の使命を見出している者も多く含まれるでしょう。近年では,大学の側もそういう人間を歓迎する向きがあり,教員公募の書類に「講師・准教授公募」ではなく,「教育職員公募」と書かれることも多くなりました。また,私が知る某教授は,「これからの採用条件は,研究者としてではなく,一職員として勤務できるかどうかだ」とおっしゃっていました。

 社会の変化に応じて,教育も変わる。教育社会学の基本テーゼですが,大学教員の役割革新の時期なのかもしれません。研究スタッフと教育スタッフに分けたらどうかという提言がありますが,こういうのも現実味を帯びているように思います。

 といっても,研究と教育は互いに補完し合うもの。教育(社会サービス)は,タコつぼの研究を広い視界に引き上げる役割を果たしてくれます。世間一般の問題と関連付けながら,学生に説明しないといけないわけですから。一方,研究の裏付けのない教育というのは味気ない。ただの「しゃべり屋」です。学生に上から講釈する教育者だけでなく,真理の下僕としての(謙虚な)研究者という位置に自らを置かないと,人格形成上もよくありません。

 要はバランスなのでしょうが,最近の状況をみるに,研究者としての側面が度を超えて軽んじられているようにも思えます。これは是正されねばならないでしょう。