2012年10月13日土曜日

子どもの遊び場

 ヒマをみては,面白そうな官庁統計資料がないものかサーチしています。政府統計の総合窓口(e-Stat)にて,わが国の官庁統計を軒並み検索することができます。府省別,分野別,さらにはキーワードでの検索も可能です。
http://www.e-stat.go.jp/SG1/estat/eStatTopPortal.do

 文科省の資料はだいたい知り尽くしたので,厚労省のもので,使えそうな未知の資料はないかと探したところ,『全国家庭児童調査』というものをみつけました。18歳未満の児童とその保護者を対象とした調査で,家庭生活,学校生活,交友関係などの様相を,学年別に知ることができるスグレモノです。こんなものがあるとは知らなかった。
http://www.mhlw.go.jp/toukei/list/72-16.html

 最新の2009年度調査の統計表をみると,面白そうなものがわんさとあるのですが,その中に,「児童数,学年等,性,遊び場」(第63表)というのがあります。私は,この表のデータを使って,子どもの遊び場が学年によってどう違うかを明らかにしてみました。

 下図は,寄せられた回答(M.A)の内訳を面グラフで表現したものです。


 子どもの生活の中で「遊び」は重要な位置を占めますが,その場所は,発達段階によってかなり異なるようです。小学生では,自宅,友人の家,公園といった近隣がほとんどですが,年齢を上がるにつれて行動範囲が拡大し,高校生段階では,店,繁華街,ゲーセン,そしてファミレスなどが多くを占めるようになります。

 まあ,当然といえば当然ですが,中高生の非行化との関連を懸念する方もおられると思います。非行化の過程は,当人の生活態度が不安定化する過程(プッシュ)と,非行のきっかけ要因に遭遇する過程(プル)の2つに分かれます。

 受験勉強に打ちひしがれている今の中高生は,多かれ少なかれ誰もが生活態度を不安定化させていますが,彼・彼女らが刺激の多い繁華街等に繰り出した場合,非行化に傾きやすくなるともいえます。上述の2つの過程がドッキングするわけです。

 非行の予防活動は,青少年の健全育成と有害環境の除去という,2つの柱からなります。前者は上述のプッシュ要因,後者はプル要因の排除に相当します。この2つは車の両輪のようなもので,いずれも欠くことのできないものです。

 私見ですが,児童期は健全育成,思春期・青年期では有害環境との接触防止に力点を置くべきではないかと考えます。

 かといって,私は,子どもを抗菌空間の中で育てろなどといっているのではありません。そのようなことは,社会の「シャ」の字も知らぬ人間を育てることにつながるのであって,フリーターやニートのような若者の自我拡散傾向も,こうしたよからぬ隔離に由来する面があることは疑い得ないでしょう。

 ですが,子どもの自我の赴くままに,ほったらかしにしておいてよい,ということではありません。今の子どもは,就労経験や生活経験という面では大人の世界から完全に隔離されている一方で,ネット等の普及により,よからぬ部分において,以前は厳としてあった垣根を簡単に飛び越えることができるようになっています。

 なすべきことは,前者の垣根を低くし,後者の垣根を高めることでしょう。有害情報をブロックするフィルタリングソフトの導入などは,後者の仕事に位置すると考えられます。各種の就労体験やインターンシップなどは,前者に属するといえましょう。

 低くすべきとことは低くし,高くすべきところは高くする。現在の青少年施策の難しさは,このような「ビミョー」な綱渡りをしなければならないことにあります。

 上図に戻りますが,中高生にもなると行動範囲が拡大し,各種のピア・グループもできてきます。そこに埋め込まれた「見えざる」教育力は,家庭や学校での教育力をも凌駕することがしばしばです。たとえば,自治や自律の精神などは,対等な人間関係の集団の中で育まれる面を強く持っています。

 ですが,それをほったらかしにしてよい,ということではありません。子どものピアグループというのは,一歩間違うと,即座に非行集団に転化してしまうような弱さを持っています。中高生の行動範囲の拡大にしても,それが見聞を広めることになるか,それとも逸脱カルチャーとの接触の機会を増やすだけのことになるかは,紙一重の差です。それゆえに,保護者や教員による適切な指導(方向づけ)が必要であるといえます。

 非行少年,とりわけ凶悪犯で捕まった少年の母親に,放任的な養育態度の者が多いことは,前回みた通りです。それは,サイモンズがいうように,放任的な親子関係のもとでは攻撃的な人格が形成されることに由来する部分もあるでしょう。ですが,形成途上の自我をうまく指導(ガイド)されなかった少年の悲劇を表現した事実であるともとれます。

 少し長くなりましたが,上記の統計図をみて,私はこのようなことを思った次第です。

2012年10月11日木曜日

親の養育態度と非行

 先日,警察庁の『犯罪統計書-平成23年の犯罪-』が公表されました。この資料は,犯罪者や非行少年の数が計上された,最も公的な原統計です。警察庁のサイトにて,閲覧することができます。
http://www.npa.go.jp/toukei/index.htm

 この資料によると,2011年中に警察に検挙された14~19歳の非行少年は77,696人だそうです。性懲りもなく何度も悪さをしでかして御用となる輩もいますので,この数は延べ数です。

 警察庁の上記資料には,非行少年の家庭環境について仔細に調査した結果が掲載されています。その中に一つに,非行少年の保護者の養育態度に関する統計表があります(表108)。父親と母親のデータが載っていますが,子どもと接する時間が長いと考えられる母親の養育態度の内訳をみてみましょう。


 放任,拒否,過干渉,気まぐれ,そして溺愛という5つのカテゴリーが設けられていますが,まあ,全体の4分の3は,これらのいずれにも該当しない普通の養育態度を持った母親です。

 養育態度の歪みの中で最も多いのは「放任」です。非行少年の5人に1人が,母親の養育態度が放任と判断されています。他のカテゴリーはごくわずかですが,溺愛が1.7%でこれに次ぎます。

 ですが,これは全罪種をひっくるめた統計です。非行の多くは万引きのような非侵入盗ですが,殺人や強盗のようなシリアス度が高い罪種もあります。当然,罪種によって親の養育態度はかなり異なるものと思われます。

 たとえば,殺人少年56人の場合,そのうちの25人(44.6%)が,放任的な母親のもとで育ったと判断されています。性犯罪の強姦については,全体の10.1%が溺愛です。全罪種でみた数値(1.7%)よりもはるかに高い値です。

 他の罪種についてもみてみましょう。母親の養育態度の歪みとして多いとされる,放任と溺愛の比率に注目します。横軸に溺愛,縦軸に放任の比率をとった座標上に,14の罪種を位置づけてみました。点線は,上記の円グラフでみた,全罪種の場合の比率を意味します。溺愛は1.7%,放任は19.5%です。


 図の上にあるのは放任の比率が高い放任型,右にあるのは溺愛型といえます。放任型には,殺人,強盗,傷害など,アグレッシブな罪種ばかりが属しています。強姦やわいせつといった性犯罪は,溺愛型に括られます。

 これをどうみるかですが,上図の傾向を支持する学説があります。サイモンズによる,親の養育態度の類型論です。サイモンズは,「拒否-受容」,「支配-服従」という2本の軸を組み合わせて,養育態度の4類型を析出しています。

 図をつくるのが面倒なので,拙著『教職基本キーワード1200』(実務教育出版)の該当頁の写真を提示します。


 右下の無視型は,放任型といいかえてもよいでしょう。サイモンズによると,放任型の親子関係で育った子どもは,攻撃的な人格になる傾向があるのだそうです。なるほど。まさに,上図の傾向と符合しています。

 はて,放任的な親子関係と攻撃的人格はなぜ結びつくのでしょう。教育社会学の授業で,学生さんに聞いてみたところ,「かまってもらえないので,自己顕示欲が強いんじゃないですか?」という意見が多かったです。

 ふむふむ。ほったらかしにされた子どもは,欲求を充足してもらいたい場合,大声を出す,暴れるなど,攻撃的なアクションをしなければならないので,攻撃的な人格が形成されていく,ということは考えられます。

 次に,溺愛的な親子関係と性犯罪のつながりはどうでしょう。この点について,ある学生さんと次のような会話をしました。

「『13歳のハローワーク』に,性的なことに関心を持つ子どもは,幼少期に愛情を注がれなかったって書いてありましたよ」
「溺愛って,ベタベタに可愛がることじゃないの」
「でも,それって本当の愛情ではないですよね」
「・・・」

 達観した物腰でこう言われて,思わず納得してしまいました。愛情欠如と性犯罪の関連については,何かの心理学関係の本で読んだことがありますが,溺愛というのは,見方によっては愛情欠如に含めて考えることもできるのかもなあ,と思った次第です。

 私の授業では,授業の主題に関連する統計を分析し,グラフを描いてもらい,そこで浮かび上がった傾向について議論することが多いです。学生さんの側も,自分で電卓を叩いて数値を計算し,精魂込めて描いたグラフであるだけに,愛着を持つといいますか,議論に食いついてくれることが多いように感じます。

 授業の受講生の方に申します。ケータイの電卓を使うのもいいですが,できれば,卓上電卓をお持ちください。買う必要はありません。お家のちゃぶ台の上にあるやつをちょっと借りてくるだけで結構ですので。

2012年10月9日火曜日

「学校なんて時間の無駄だった」の国際比較

 前回は,PISA2009の生徒質問紙調査の結果をもとに,学校で学んだことに対する生徒の評価が,国によってどう違うかを明らかにしました。また,国際データにおけるわが国の位置も知りました。

 そこで分かったのは,日本の15歳の生徒(高校1年生)は,これまで学校で学んだことをあまり高く評価していない,ということです。15歳の生徒にとって「これまで学校で学んだこと」とは,義務教育学校で学んだこととほぼ同義でしょう。

 私は,4つの項目への生徒の反応を合成して,一つの尺度(measure)を構成したのですが,項目それぞれへの反応を仔細にみてみると,他国との差が出ているのは,「学校なんて時間の無駄だった」に対する意識であることが分かりました。

 「時間の無駄」とはなかなか手厳しい文言ですが,わが国の生徒がこの項目にどう反応しているかは,他国とかなり違っています。下図は,わが国を含む7か国の生徒の反応分布です。無回答,無効回答は除外しています。(   )内は,各国のサンプル数です。


 日本の場合,全体の33.6%が「とてもよくあてはまる」と答えています。15歳の生徒の3人に1人が,これまで学校で学んだことを,何の躊躇いもなく「無駄だった」と評しているわけです。 「どちらかといえば,あてはまる」までも含めた,広義の肯定率は66.6%(3人に2人)にも達します。図中の7か国の中で最高です。

 6か国との比較だけでは心もとないので,PISA2009の全対象国(74か国)の中に,わが国を位置づけてみましょう。両端の回答比率をもとに2次元のマトリクスを構成し,その中に各国のドットを散りばめてみました。


 最近,本ブログを続けてみて下さっている方には,もうお馴染みの図です。中間の回答を抜いた横着なものですが,多数の国の傾向と,その中におけるわが国の位置を一目で知ることができます。

 右下にあるのは,「学校なんて時間の無駄だった」と感じている生徒が多い国です。左上にあるのは,その反対です。斜線は均等線であり,この線よりも下にある場合,強い否定よりも強い肯定のほうが多いことを意味します。

 図をみると,日本は右下のほうにプロットされています。ほう。上には上がいるようで,インドのタミル・ナードゥ州では,15歳の生徒の4割が「学校なんて時間の無駄だった」と断言しています。その次が日本(33.6%),それに次ぐのがマレーシア(32.8%)です。

 少ししか国名を記していませんが,右下にあるのはアジア諸国ばかりですね。一方,図の左上は,軒並みヨーロッパ諸国です。オーストリアでは,15歳の生徒の半分近くが,これまでの学校生活を有意義だったと評していることが知られます。ドイツは約4割。米英仏の3国は,縦軸上の位置はかなり下がりますが,横軸の回答比率よりは高くなっています。お隣の韓国も然り。

 わが国では,15歳の生徒の多くが,これまでの学校生活を「無駄だった」と評しているのですが,それはどういう事情によるのでしょう。この問題に接近するための手立ての一つは,「無駄だった」という評価は,どういう属性の生徒で多いのかを明らかにすることです。

 日本のデータに限定して,いくつかの属性変数とのクロス集計を行った結果,上記項目への反応分布は,在学している高校のタイプによって違うことが分かりました。ここでいう高校のタイプとは,進学校,準進学校,非進学校,というものです。

 進学校とは,学校質問紙調査において,多くの保護者から有名大学進学期待があると答えた学校です。準進学校は,そういう期待が一部の保護者からあると答えた学校です。非進学校は,その手の期待がほとんどないと答えた学校です。

 「学校なんて時間の無駄だった」という項目に有効回答を寄せた,日本の高校1年生6,065人を,在学している高校のタイプに依拠して3群に分かち,各群の反応分布をとってみました。


 進学校に在籍している生徒ほど,肯定の回答が多いことがうかがわれます。微差ではありますが,サンプル数が多いので,統計的には有意な差です。

 進学校ほど,学校なんて時間の無駄だったと断じる生徒が多い。これをどう解釈したものでしょう。先ほども述べましたが,PISA2009の対象は高校1年生ですので,「時間の無駄だった」と回顧しているのは,それよりも下の義務教育学校であるとみてよいでしょう。

 進学校を目指す生徒は,学校の授業なんかそっちのけで,塾での勉強に精を出すといいます。たとえば,中学受験をする児童は,教員も保護者も公認で学校を休ませたりします。こういうことの表れなのではないかと思います。

 このことは,児童・生徒の高度な要求に応えられていないという,学校の側の問題でしょうか。そういう見方もあるでしょう。現在では,学校の教員の授業研修に,塾や予備校の講師が指導者として招かれることが多々あります。

 ですが,学校は受験学力を身につけるところではありません。各教科のほか,道徳,総合的な学習の時間,および特別活動など,子どもの総体的な発達を促すためのカリキュラムが組まれています。ですが,生徒の側は,そのようなトータルな成長の場として学校を捉えてはいないようです。

 わが国において,「学校なんて時間の無駄だった」と評する生徒が多いのは,全面的な成長ができない,職業に役立つ技術を教えてくれない,ということではなく,受験に役立つ知識を教えてくれないから,ということに由来する部分が大きいようです。ちょっと寂しい思いがします。

 しかし,原因はこれだけではありますまい。学校を「無駄だった」と評するか否かを分かつ要因を,林の数量化Ⅱ類(判別分析)で解明する作業も面白いかと思います。この種の多変量解析を手掛けるのは久しぶりですので要復習です。

2012年10月6日土曜日

学校で学んだことに対する評価の国際比較

 PISA2009の生徒質問紙調査のデータセットづくりを進めています。74か国,51万5,958人分のデータです。ケース数が膨大なので,設問ごとにファイルを分割しています。

 PISA2009の質問紙調査では,対象生徒の家庭環境,学校観,教師観,読書嗜好,ICT利用状況など,興味深い事項を数多く尋ねています。これらの設問への回答結果を,自分の関心の赴くままに自由自在に分析できるわけです。

 この恩恵は,3K資源(カネ,コネ,肩書)がある専門研究者だけではなく,万人にもたらされています。SASやSPSSといった高度な解析ソフトが必要というのでもありません。OECDの下記サイトからテキスト形式の圧縮データをDLし,それを展開してエクセルに取り込めば,データセットの完成です。ピボットテーブル機能を使うことで,単純集計やクロス集計程度のことは難なくこなせます。
http://pisa2009.acer.edu.au/downloads.php

 今回は,各国の生徒が,学校で学んだことをどう考えているのかを明らかにしようと思います。9月29日の記事では,日本の国語の授業が知識注入的なものに偏しているのではないか,という問題提起をしたのですが,この種の授業を受けている(受けさせられている)わが国の生徒は,学校で学んだことをどう捉えているのでしょう。また,国際データの中での位置は如何。PISA2009のデータを使って,この点を吟味してみようと思います。

 PISA2009の生徒質問紙調査のQ33(日本語版では問29)では,「あなたが今まで学校で学んだことについて,次の文章はどれくらいあてはまりますか」と問うています。


 調査対象は15歳の高校1年生ですから,「今まで学校で学んだこと」とは,高校入学後だけではなく,それよりも下の義務教育学校で学んだことをも含むものと解されます。いや,在学期間から考えて,後者のほうがメインであると思われます。

 提示されている項目は4つですが,①と④は,社会生活や職業に役立つことを教わったかを問うものです。③についても興味が持たれます。人間の一生というのは,ある意味,決断の連続ですから。②は,文言がなかなかスパイシーですね。

 さて,4項目への反応を合成して,学校で学んだことに対する評価の度合いを測る尺度をつくってみましょう。値が高いほど,好ましい意味を持たせるようにします。③と④は,設問の選択肢の数字をそのまま使えます。ネガティヴ項目の①と②については,数値を反転させます。1という回答には4点,2には3点,3には2点,4には1点を与えるわけです。

 このような決まりを置くと,各生徒の評価のレベルは,4点から16点までのスコアで計測されます。16点は最高評価,4点は最低評価です。いずれかの項目に無回答ないしは無効回答がある生徒は,スコアの正確な算定ができないので,分析から除外します。下表は,74か国,49万8,281人のスコア分布です。


 10点をピークとした,とてもきれいな分布です。私は,この分布を参考にして,全生徒を3群に分かちました。8点までの者は低評価群,12点以上の者は高評価群とします。9~11点の者は,双方の中間ということで中間群とします。

 <   >内の数値は,各群の比率(%)です。3等分というのではありませんが,このような区切り方が,最もバランスのよいものだと思います。まあ,各国の生徒を同列の基準で仕分けるのですから,大きな問題はありますまい。

 では,この3群の分布が国によってどう違うかをみていきましょう。まずは,日本を含む主要国,お隣の韓国,そして中米のコスタリカのデータをお出しします。(   )内は,各国のサンプル数です。日本の場合,スコアを明らかにし得た6,041人の分布が図示されています。


 むーん。日本は,7か国の中で高評価群の比率が最も低くなっています。わずか11.0%です。逆をみると,低評価群の率が4割にも達しています。それと正反対なのがコスタリカです。中米のこの国では,15歳の生徒が,学校で学んだことを高く評価しています。スコアが12点を超える高評価群もが42.2%もおり,低評価群のほうはたったの7.3%しかいません。

 先進4か国(米英独仏)は,わが国とコスタリカの中間というところです。お隣の韓国は,わが国に近い状態ですが,低評価群の比率は低くなっています。中間層が厚い型です。

 以上は7か国の比較ですが,これだけでは,日本の位置を知るのにには不十分です。PISA2009の全対象国の分布図の中に,日本を位置づけてみようと思います。中抜きの2群の比率をもとに2次元のマトリクスを構成し,その中に74か国を定位することにいたしましょう。

 下図は,横軸に低評価群,縦軸に高評価群の比率をとった座標上に,74か国を散りばめたものです。わが国(38.9%,11.0%)の位置に注目してください。


 図の見方ですが,左上にあるほど,高評価群の率が高く,低評価群の率は低いことになります。すなわち,学校で学んだことに対する生徒の評価が高い国と解されます。右下に位置する国は,その逆です。斜線は均等線であり,この線よりも上にある場合,高評価群のほうが低評価群よりも多いことになります。

 さて,わが国はいうと,極地ではありませんが,右下のゾーンに位置しています。低評価群の率は74か国の中で1位,高評価群の率は下から5位です。前者の比率がダントツで高いことを考えると,わが国は,学校で学んだことに対する生徒の評価が最も低い国であるといえそうです。

 日本の近辺には,アジアの諸国が多く位置しています。北欧のフィンランドがこのゾーンに位置するのは,ちょっとばかり意外です。

 一方,図の左上をみると,中南米の諸国が申し合わせたように名を連ねています。イギリスはそのすぐ下にあり,米独仏の3国は中間よりも少し下の位置にあります。

 9月29日の記事に続いて,またしも,わが国の好ましくない状況が明らかになりました。これをどうみたものでしょう。受験体制の影響でしょうか。しかし,わが国以上に受験競争が熾烈な韓国との距離が大きいことから,そればかりを強調することはできますまい。

 ここでは,15歳の生徒に対して「今まで学校で学んだことをどう思うか」と尋ねた設問の結果を分析したわけです。上級学校への進学率が低い中南米の諸国では,義務教育の早い段階において,実践的な職業教育の比重が大きく,わが国はそうではないことから,上図のような結果になったとも考えられます。

 国民の共通教育としての義務教育では,普遍性の高い普通教育に重きが置かれますが,その程度は国によって異なるでしょう。半分以上の子どもが高等教育に進学するわが国では,義務教育の内容の普遍性(抽象性)が殊に高い,ということかもしれません。

 しからば,上図の傾向を等閑視してよいかというと,そういうことではありません。義務教育段階でも職業教育は実施されるべきであり,法規の上でも,義務教育として行われる普通教育においては,「職業についての基礎的な知識と技能,勤労を重んずる態度及び個性に応じて将来の進路を選択する能力を養うこと」と規定されています(学校教育法第21条)。また,近年重視されているキャリア教育は,幼児期から体系的に実施することとされています。
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/1301877.htm

 今回のデータは,早期の段階における職業教育が,わが国では脆弱なのではないか,という問題を提起します。

 しかるに,問題はそれだけではありません。今回使った4項目への反応を個別に出してみると,他国との差が大きいのは,②の「学校なんて時間の無駄だった」に対する反応です。わが国では,全生徒の66.6%(3人に2人)が,「どちらかといえば,あてはまる」ないしは「とてもよくあてはまる」と答えています。「とてもよくあてはまる」の選択率は33.6%(3人に1人)です。

 上図の対極に位置するコスタリカの選択率は,順に27.0%,6.9%なり。えらい違いです。わが国では,15歳の生徒の多くが,これまでの学校生活を「時間の無駄だった」と評していることが知られます。

 社会に役立つ職業技術云々というようなことよりも,もっとトータルな次元において,教育機関としての学校に対する,生徒目線の評価が芳しくないことがうかがわれます。「時間の無駄」という手厳しい言い回しの中身を,具体的にイメージできる言葉において,多様な角度から検討することが求められるでしょう。

 また,「時間の無駄」と感じる生徒が,どういう属性で多いのかを吟味することも重要かと存じます。新自由主義のゆとり教育路線のもと,下層の生徒が自発的に勉学から下りていく様を明らかにしたのは苅谷剛彦教授ですが,ここでみたような,学校とのボンド(絆)の程度にも,社会階層格差がみられるかもしれません。
 
 PISA2009の生徒質問紙調査では,生徒の保護者の学歴や職業について問うています。これらを組み合わせて社会階層変数を作成し,クロス集計をしたらどうでしょう。また,関連の様相が国によってどう違うかも興味深いところです。

 「学校から下りていく下層の子どもたち」。このような現象がわが国に固有のものかどうかは,こうした分析によって明らかになることでしょう。

2012年10月5日金曜日

学位の有無別にみた博士課程修了者の進路

 8月30日の記事では,大学院博士課程修了者の進路状況を明らかにしました。資料は,文科省の『学校基本調査報告(高等教育機関編)』です。

 これは最も公的な基幹統計ですが,進路カテゴリーの区分が粗いという難点があります。「就職」にしても,大学専任教員ないしはポスドクなど,職種の構成が気になります。また,いずれのカテゴリーにも該当しない「その他」というのがクセモノで,この広範な「屑かご」カテゴリーの中身が見えないことも不満です。

 上記の記事に関するツィッター上のつぶやきを拝見しても,そのような声がちらほら見受けられます。そこで,修了生の進路をもっと仔細に調べ上げた調査資料はないものかと探してみたところ,文部科学省科学技術政策研究所の手になる『我が国における人文・社会科学系博士課程修了者等の進路動向』というものをみつけました。
http://www.nistep.go.jp/archives/5432

 この調査の対象は,2002年度から2006年度までの博士課程修了生(満期退学者も含む)です。抽出調査ではなく,全数調査とされています。なるほど。収集された総ケース数(75,197人)は,『学校基本調査』から分かる,同期間の修了生の累積値とほぼ等しくなっています。

 5つの年度の修了生について,修了直後の状態を再現してみましょう。下図は,主な専攻系列ごとの帯グラフです。


 就職者の職種構成が分かるようになっていますが,理系の場合,ポスドクや研究職が多いようです。文系は,大学の専任職や非常勤職(その他)でしょうか。修了と同時に大学専任職をゲットできた(幸運な)者は,私がでた教育・芸術系の場合,全体の17.4%なり。人文系は10.1%,社会系は15.8%です。ここでいう専任には,有期雇用も含まれますので,まあ,こんなものでしょう。

 ちなみに私は,2005年春の教育系修了者で,修了直後は大学非常勤講師でしたから(今も),上図の緑色の部分に含まれることになります。

 次に,右側の「おめでたくない」層に目を転じましょう。文系の3専攻系列では,職業不明という者が最も多くなっています。ほぼ3人に1人です。職業不明の事由の多くは,連絡がつかなかった,ということであろうと思われます。その意味で「行方不明者」と言い換えてもよいかと思いますが,表現に飛躍がありますので,資料の記載の通り,職業不明者ということにしましょう。

 続いて,黒色の「無職」に注意してください。この中には,学生や専業主婦(夫)は含みません。これらは,お隣の⑥に含めています。したがって,上図でいう無職は,非自発的な理由で職に就けないでいる者であるとみてよいでしょう。

 こうみると,修了生の惨状の度合いを測るバロメーターは,⑦と⑧の合算値であるといえましょう。ほう。人文系と社会系は,この値がちょうど4割に達しています。5人に2人です。やはり,理系よりも文系の専攻で惨度が高いようですね。この点は,『学校基本調査』から分かることと同じです。

 ここまでは,8月30日の記事のおさらいのようなものですが,本記事の主眼はこれからです。ここで参照している科学技術政策研究所の資料では,人文・社会系の博士課程修了生の動向が仔細に分析されています。タイトルに偽りなしです。

 上図でみたような修了直後の状態を,各系列の下にある細かい専攻分野ごとに知ることもできます。人文系の場合,文学,史学,および哲学という下位分野を内包していますが,これらについても同じ統計をつくることができるわけです。

 また,さらにスゴイのは,博士号学位取得者と満期退学者の違いも分かることです。文学専攻の場合,前者は798人,後者は1,839人となっていますが,この2つの群で,修了直後の状態がどう異なるのかが注目されます。この点を吟味することは,学位取得の効果(benefit)を測ることにもつながるでしょう。

 私は,文系の8つの専攻分野の修了生について,修了直後の状態を,博士号学位の有無別に明らかにしました。上図の8つのカテゴリーの組成をベタに提示する必要は薄いと思うので,明の部分(②大学専任+④研究職)と,暗の部分(⑦無職+⑧職業不明)に焦点を合わせることにしましょう。

 横軸に大学専任・研究職(明),縦軸に無職・職業不明(暗)の比率をとった座標上に,16の群を位置づけてみました。8つの専攻分野の修了生を,学位の有無で分割した16群です。Aは学位取得者,Bは満期退学者であることを意味します。


 予想がつくことですが,ほとんどの分野において,Bが左上,Aが右下に位置しています。やはり,専攻を問わず,学位取得者のほうが正規職にありつける確率は高いようです。一方,学位を取らないで退学した者は,よからぬ状態に陥る可能性が相対的に高いことが知られます。

 図中の16の群のうち,惨度が最も高いのは芸術専攻の退学者です。この群では,全体の53.8%が無職ないしは職業不明者です。ほか,商学・経済学や人文系の3専攻の退学者が,近辺に位置しています。

 対極の右下に目を移すと,社会学や教育学の学位取得者は比較的好調です。点線の斜線は均等線であり,この線よりも下にある場合,無職・職業不明者よりも,大学専任教員・研究者のほうが多いことになります。

 社会学専攻では,A群とB群の位置の開きが大きくなっています。つまり,学位の有無による差が大きい,ということです。この専攻の場合,在学中に何とか学位を取りたいものですね。

 こうした学位の有無による違いを,専攻分野ごとに可視化してみましょう。各専攻分野について,AとBの位置を線でつないでみました。矢印の始点(しっぽ)はB,終点(行き先)はAの位置です。矢印が長いほど,学位取得の効果が大きいことが示唆されます。


 法学・政治学を除く全ての分野において,右下がりの矢印になっています。博士号をとることで,無職・職業不明率が減じ,代わって正規就職率が増す,ということです。しかし,線の長さはまちまちで,最も長いのは社会学です。この専攻の場合,博士号をゲットすることで,「天への川」を渡ることができます。私が出た教育学専攻も然り。

 法学・政治学専攻のみ,矢印の向きが他と違っています。学位をとることで,無職率は下がりますが,正規就職率もダウンします。この専攻の場合,司法試験浪人などがいますから,他と異なる傾向になるのではないかと推察されます。

 本記事で新たに分析したことは,学位の取得の有無によって,人文・社会系の博士課程修了生の状況がどう変異するかです。皆さまの参考に与するところがあれば幸いです。

2012年10月3日水曜日

国語の授業スタイルの国際比較(続)

 今日は肌寒い日となっています。いかがお過ごしでしょうか。

 さて,9月29日の記事では,高校国語の授業スタイルの国際比較を手掛けたのですが,この記事をみてくださる方が多いようです。使った資料は,PISA2009の生徒質問紙調査のローデータです。下記サイトより,回答結果が入力された段階のローデータをDLできます。
http://pisa2009.acer.edu.au/downloads.php

 上記記事では,以下の7項目への生徒の反応を合成して,彼らが受けている国語の授業の進歩性を計測する尺度(measure)を構成したのでした。ここでいう生徒とは,15歳の高校1年生です。


 いずれも,考える力のような,生徒の諸能力を開発を目指す開発主義教授に関わる項目と読めます。したがって,これらを合成して一つの尺度を構成するというやり方は間違ってはいなかったと思います。その結果,わが国の「特異」すぎる位置が明らかになったことでもありますし・・・。

 しかるに,7項目それぞれに対する反応はどうか,という関心もあるかと思います。とある方から,この点に関するデータを示していただけないか,というメールをいただきました。今回は,そうした要望にお答えしようと思います。

 先の記事では,開発主義教授の性格が最も強い国は東欧のハンガリーであり,その対極に日本が位置していることを知りました。7つの項目への反応が,この2国でどう違うのかをみてみましょう。

 さあ,どれからみたものか。私は高校生の頃,結構文学少年?で,国語の先生にどういう作家を読んだらいいのか尋ねたことがあるのですが,「教科書に載ってる作品だけ読みゃいいんだよ」と一蹴され,興ざめしたことがあります。そこで,まず④への反応分布から比べてみようと思います。無回答,無効回答を除外した分布図を掲げます。カッコ内の数字はサンプル数です。


 
 ほう。両国では,生徒の反応が大違いです。前者では8割が肯定していますが,わが国の肯定率は2割弱です。かつての私のような経験を味わっている生徒さんもいるのだろうなあ。「んなの,受験にカンケーねえだろ!」みたいな・・・。

 先の記事の統計図において,日本とハンガリーは対極的な位置にあるのですが,それは,こういう部分の違いによるのでしょうね。ですが,他の項目においては,もっと大きな反応の差が見受けられるかもしれません。

 上図のような帯グラフをあと6つ描くというのは煩雑ですし芸がないので,表現方法の工夫をします。横軸に強い否定の回答(ほとんどない),縦軸に強い肯定の回答(いつもそうだ)の比率をとった座標上に2国を位置づけ,線でつないでみました。


 矢印の始点(しっぽ)はハンガリー,終点はわが国の位置を表します。左上にあるほど肯定率が高く,右下にあるほど否定の率が高いことを示唆します。当然ですが,すべての項目において,ハンガリーが左上,日本が右下にあります。

 ですが,両国の位置間の距離はまちまちです。お分かりかと思いますが,矢印が長いほど,反応の違いが大きい項目であると解されます。どうやら,の項目への反応で差が出ているようです。文章の意味を深めさせる,本や作家をすすめる,物語と実生活を関連づける,というようなものです。

 なるほど。わが国では,こういう部分が弱いのですね。要改善点であるといえましょう。④についてはとくに。子どもの読書活動推進の取組がなされている状況でもありますし。
http://www.mext.go.jp/a_menu/sports/dokusyo/

 さて,読書の秋になりました。私は最近,青春モノのライト・ノーベルにハマっています。越谷オサムさんの作品を読みあさっています。この人の作品は,読後感がとてもいいのです。メイド喫茶のバイトで津軽三味線をひく女子高生が主人公の『いとみち』の続編,『いとみち・二の糸』(新潮社)が発刊されたとのこと。週末の九州行きの車中のお供は,これでキマリです。
http://www.shinchosha.co.jp/book/472304/

2012年10月1日月曜日

台風一過の朝

 昨日は台風がすさまじかったですが,今日は晴天でした。こういう日は,散歩に限ります。自宅近辺の「ゆうひの丘」からの眺望を一枚。早朝に撮ったものです。


 雲一つない,抜けるような青空です。10月は,秋晴れの季節。週末の連休に,法事で九州に行くのですが,晴天になりますように。

 多摩市連光寺3丁目の「ゆうひの丘」は,都内でも有数の眺望スポットであり,ドラマのロケ地にもよく使われるとのこと。そういえば,この夏放映されたTBSドラマ「黒の女教師」の第2話において,この場所が映りました。栗原くんが下村さんを探す場面です。

 この番組は終了しましたが,来年の頭にDVD化されるとのこと。台詞中の統計データの監修として関わっただけに楽しみです。
http://www.tbs.co.jp/kuro-no-onna/