2013年1月24日木曜日

教員の権威低下のデータ

 昔に比べて教員の威厳が低下した,教員の権威が失墜したなどとよくいわれます。そのことが,現在の教職危機を発生せしめる条件をなしている面もあります。

 学校に理不尽な要求をつきつけるモンスター・ペアレントの存在が社会問題化していますが,半世紀前の人間がタイムマシンでやってきて,保護者が教員に怒鳴り散らす,教員が保護者に土下座するなどの光景を目にしたら,それはもう仰天することでしょう。

 ところで,教員の権威低下がよく指摘される割には,それを示す客観データを目にしたことがありません。ちょいと探してみたところ,統計数理研究所の『国民性調査』の中に,関連する設問が盛られていることを知りました。
http://www.ism.ac.jp/kokuminsei/table/index.htm

 『国民性調査』は,1953年(昭和28年)以降,5年間隔で実施されているもです。対象は20歳以上の国民。以下の設問への回答変化を,最新の2008年調査までたどることができます。

 問い 「先生が何か悪いことをした」というような話を,子供が聞いてきて,親にたずねたとき,親はそれがほんとうであることを知っている場合,子供には「そんなことはない」といった方がよいと思いますか,それとも「それはほんとうだ」といった方がよいと思いますか?

 先生様が悪事を働いたなどと子どもに知らせたりしたら示しが立たない。こう考える者は,「そんなことはない」といった方がよいと答えるでしょう。先生だろうが何だろうが悪は悪だ。子どもにきちんと伝えるべきだという意見の者は,「ほんとうだ」といった方がよいと回答することでしょう。

 この設問は合理主義の程度を測るものとも読めますが,教員の権威低下の様相を可視化するのにも使えると思います。半世紀ちょっとの間にかけて,寄せられた回答の分布はどう変わってきたのでしょう。


  「そんなことはない」と隠すべきという回答は,時代と共にみるみる減ってきています。1953年では38%でしたが,2008年では21%です。代わって,「本当だ」と事実を教えるべきという回答が42%から63%へと,20ポイント以上も増えているのです。

 これは20歳以上の全対象者をひっくるめた傾向ですが,年齢層別にみるとどうでしょう。予想としては,若い年代ほど,「そんなことはない」と否定すべしという回答は少ないように思われます。

 「そんなことはない」という権威派の回答比率に注目しましょう。下図は,5年刻みの調査実施年ごとの年齢層別数値を上から俯瞰したものです。色の違いに依拠して,率の大まかな水準を読み取ってください。本ブログを長くご覧頂いている方はもうお馴染みですよね。時代×年齢の「社会地図」図式です。


 いかがでしょう。時を下るほど,若い年齢層になるほど,権威派の回答比率は小さくなっていきます。昔の高齢者にあっては,半分近くの者が,教員の非を子どもに知らせるべきでないと答えていました。ところが現在の若年層にあっては,そのような考えの者は2割ほどです。

 2008年のデータでみると,権威派の回答比率が最も小さいのは30代で18%なり。子育ての最中にある親御さんの年齢層です。なるほど。今の学校でMPが問題化しているというのも,さもありなんです。
 
 教員の権威低下の原因については,いくつか考えられますが,よくいわれるのは,今の教員は希少な知識人ではなくなっている,ということです。

 小・中・高の教員数(本務)は,戦後初期の1950年では57万人ほどでしたが。2012年現在では91万人にまで膨れ上がっています(文科省『学校基本調査』)。また大学進学率が上昇した今日,保護者の多くは教員と同じ大卒です。対等の立場でガンガン口出ししてくるというのも,頷けるところです。

 これではということで,現在,教員養成の期間を6年間に延長し,教員志望者には修士の学位を取らせようという案が出されています。名目上は専門性の向上ということになっていますが,教員の学歴水準を一段高くして,知識の伝達者としての教員の威厳の基盤を担保しよう,という意図が込められていることがうかがわれます。

 デュルケムもいうように,権威(autorité )とは教師にとって不可欠の資質です。何の権威も感じられない,そこいらの人間と同じような輩が口にすることに,子どもが熱心に耳を傾けるはずはありますまい。

 ですが,権威の源泉というのは,学歴がどうとかいう外的なものに限られません。デュルケムは,教師の権威の源泉として,教師が自らの職務にどれほど誇りを感じているか,ということが重要であると述べています。また,教師は社会という道徳的人格の代弁者であるがゆえ,当の社会に教師が抱いている愛着の程度も,権威の源泉として作用すると指摘しています(『道徳教育論』)。

 これらは,外的な源泉とは区別されるところの,内的な源泉であるといえましょう。実のところ,教師の源泉として重要であり,かつ望ましいのはこちらのほうです。

 学歴とか身なりという外的なものに由来する権威は,しばしば傲慢,さらには権威主義に転化します。デュルケムが,教師の権威を重視しながらも,学校が権威主義の場となってはならないと厳に戒めしていることはよく知られています。

 しかるに,上述のような内的な源泉から湧き出るところの権威というのは,それとは違います。教師が偉ぶったり,子どもに体罰を振るったりすることの因となるのではなく,子どもの内に教師への敬意を喚起させ,教授活動を効果的ならしめるプラスの条件として作用します。

 今の状況をみるに,教師の権威の内的な源泉が枯れ果てているように感じるのは私だけでしょうか。教室の中において,人を欺いてはならぬと道徳を説いたところで,目の前の子どもの何割かは,それを業とするような悪徳企業に入っていくわけです。教室の中と外の社会が大きく違っていることを,教師たちは知っています。

 実社会で求められる資質能力は「学問よりもコミュニケーション」などとあからさまにいわれると,自分がやっていることは何なのだろうと懐疑に陥る大学教員も少なくないことでしょう。そういう思いで教壇に立つ教員の言に耳を傾ける学生は少なし。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/130122/edc13012216020003-n1.htm

 もっと根源的にいえば,自殺者が毎年3万人を超えるような「病んだ」社会に愛着を抱く教師などいるのかしらん。

 教師の権威の低下については,子どもや保護者が自己チューになったとか,教師が希少人材ではなくなったとか,いろいろなことがいわれますが,教師の「内」にも原因はありそうです。己の職務への誇り,自らが代弁するところの道徳的人格としての社会への愛着。デュルケムが述べた,教師の権威の(内的な)源泉の枯渇です。今回紹介したデータは,そういう傾向が今になって強まってきていることの表れともいえるでしょう。

 今年(2013年)は,『国民性調査』の実施年です。先ほどの統計図を下に延ばしたら,どういう模様になることか。この5年間の社会変化の有様と同時に,2009年度より実施されている教員免許更新制の目的「教員が自信と誇りを持って教壇に立ち,社会の尊敬と信頼を得ること」がどれほど具現されているかが評されることにもなるでしょう。結果を期して待ちたいと思います。