2012年6月17日日曜日

戦前期の教員の死亡率

4月14日の記事では,大正時代の教員の生活が悲惨きわまりないものであったことを紹介しました。第1次世界大戦後の好景気によりインフレが進行したのですが,教員の給与は,それに見合う形で上昇しなかったからです。

 当時の新聞や雑誌をくくると,教員の悲惨な生活実態を伝える記事がわんさと出てきます。「惨めな月給生活」,「一家離散」,「弁当は大抵パン半斤」,「食物さへ十分でない教員」,「三分の一は住宅費に」,「病人多し」・・・上記の記事で紹介した朝日新聞の記事には,こんなフレーズが躍っています。

 今回は,量的なデータを用いて,当時の教員の危機状況を再構成してみようと思います。内閣統計局『日本帝国死因統計』の各年次版に,職業別の死亡者数が載っていることに気づきました。職業カテゴリーの中に「教育ノ業」というものがあります。この中には学校の教員のほか,私塾の教員なども含まれるのでしょうが,多くは前者であるとみてよいでしょう。以下,「教員」ということにします。

 私はこの資料をもとに,明治末期から昭和初期における,各年の教員の死亡者数を明らかにしました。そして,この数を各年の小学校教員数で除して,教員の死亡率を計算しました。当時の教員は,ほとんどが小学校の教員でしたので,分母をこのグループで代表させてもよいでしょう。各年の小学校教員数は,文部省『学制百年史(資料編)』より得ました。

 大正末期の大正15年(1926年)でいうと,教員の死亡者数は2,201人,小学校教員数は216,831人なり。よって,この年の教員の死亡率は,小学校教員千人あたり10.2人と算出されます。この数字は,教員の相対的な死亡確率なので,絶対水準を問題にするものではありません。ここでの関心は,この死亡確率が,明治末期から昭和初期にかけてどう推移したかです。

 下図は,明治39年(1906年)から昭和11年(1936年)までの30年間において,教員の死亡率がどう変化したかをたどったものです。当時の経済変動との関連もみるため,消費者物価指数(1934~36年平均=100)のカーヴも添えています。この指数の出所は,大川一司ほか編『長期経済統計8:物価』東洋経済新報社(1967年)の135頁です。


 教員の死亡率は,大正6年から7年にかけて跳ね上がります。この時に何があったかというと,急激なインフレです。消費者物価指数は,この1年間で77から104へと上昇しました。にもかかわらず,教員給与はほぼ据え置きのままだったのですから,教員の生活難が一気に高まった,ということでしょう。大正7年(1918年)は,教員の死亡確率がピークであった年です。4月14日の記事で紹介した,「惨めな月給生活」と題する朝日新聞の記事は,この年のものだったのだなあ。

 全体的にみて,教員の死亡率のアップダウンは,消費者物価指数のそれと近似しています。物価が上がれば高くなり,下がれば落ち着く。この期間のデータから,両指標の相関係数を出すと0.628にもなります。有意な正の相関です。戦前期の教員の危機状況は,経済変動と密接に関連していたことが知られます。

 さて,教員らが「惨めな月給生活」を強いられ,死亡率がピークであった大正7年における,教員給与の水準はどうだったのでしょう。下表は,公立の尋常小学校教員の平均月給額を職名別に示したものです。


 職階によって一様ではありませんが,最も多数を占める,小学校本科正教員の資格を持つ男性正教員で31.42円なり。准教員や代用教員になると,20円を切ります。

 この給与額が高いか低いかですが,上記の『長期経済統計8:物価』によると,この年の大工さんの平均日給は184銭だったとのこと(245頁)。月25日勤務とすると,月収額は46円となります。資格持ちの男性本科正教員でさえ,大工の月収の3分の2ほどであったようです。准教員や代用教員に至っては,3分の1程度なり。

 上表の教員数の欄から分かるように,当時の尋常小学校教員の4人に1人は,超低賃金の准教員や代用教員でした。こうみると,当時の各種メディアでいわれていることが,決して誇張ではないことがうかがわれます。

 これでは,ということで,大正9年(1920年)に公立学校職員年功加俸国庫補助法が制定され,公立学校教員の年功加俸に国庫補助が得られることになりました。それに伴い,教員給与が大幅にアップするのですが,その効果は如何。

 下図は,教員の大工の平均月給額を推移をとったものです。教員の平均月給額は,各年の教員の性別・職階構成を考慮して算出したものです。上表の大正7年のデータから総平均を出すと,23.15円なり。大工の月給は,日給×25で出しました。


 悲しいかな,大正9年の教員給与増も「焼け石に水」であったようです。大工の給与はそれを上回る増加ぶりです。大正期はずっと,教員の生活難が継続していたことがうかがわれます。

 ですが,昭和初期の不況期になると大工の月収は下がり,昭和6年には逆転します。「不況に強い公務員」は,いつの時代でも同じなり。石戸谷哲夫教授は,この時期の教員生活を「未曾有の恵まれた状況」と表現しています(『日本教育史』講談社,1967年,427頁)。

 しかるに,民間からの妬みもあったのか,教員給与不払い,強制寄付のようなことがまかり通っていたことも指摘しておかねばなりません(とくに農村部)。その後,昭和10年代の半ばになると,軍需インフレにより,教員の生活は再び苦しくなります。

 今回は,死亡率と教員給与という量的な統計指標によって,戦前期の教員の危機状況を再構成してみました。教員生活に関わる「時代の証言」を採集するのと並行して,こういうマクロな統計も蓄積していきたいものです。