2013年4月11日木曜日

日本の生徒の対教師関係

 海外の研究者が日本の学校を訪れて驚くのは,教室の秩序がきちんと保たれていることだそうです。授業中は,皆が教科書とノートを出して,静粛にして教師の方を向いている。われわれにとってはごく当たり前のことですが,外国の人からすれば必ずしもそうではないようです。

 このことは,データからも確認されます。OECDのPISA2009の生徒質問紙調査では,対象の15歳生徒(高校1年生)に対し,学校の国語の授業で「生徒は,先生の言うことを聞いていない」という事項への反応を尋ねています(Q36)。
http://pisa2009.acer.edu.au/downloads.php

 「たいていそうだ」と「いつもそうだ」の反応率をとってみると,アメリカでは24.9%,フランスでは35.2%にもなるのに対し,日本はわずか8.2%です(無効回答除いた百分比)。日本のこの値は,PISA2009の全対象国(74か国)の中で最も低くなっています。

 ほほう。何とも結構なことです。しからば,わが国の生徒は教師とさぞうまくいっているのだろうと思われますが,こちらはどうなのでしょう。同調査のQ34では,「私はたいていの先生とうまくやっている」という事項について自己評定するよう求めています。「とてもよくあてはまる」+「どちらかといえば,あてはまる」の反応率を出してみましょう。

 私は,これらの2つの指標をもとに2次元のマトリクスを構成し,その上に74の社会を散りばめてみました。横軸は「生徒は,先生の言うことを聞いていない」と評する者の比率,縦軸は「私はたいていの先生とうまくやっている」に対する肯定率です。点線は,74か国の平均値を意味します。


 2つの指標は傾向としては負の相関関係にあり,第2象限(左上)と第4象限(右下)に位置する国が多くなっています。第1象限(右上)と第3象限(左下)にあるのは,イレギュラーなケースです。

 しかるに,日本のイレギュラー性は際立っており,左下の極地にあります。教師の言うことを聞く生徒は多いが,その一方で,教師と良好な関係にある生徒は少ない。変わった社会です。

 マートン流にいうと,わが国の生徒は教師に対して「儀礼的」な戦略をとっている,ということでしょうか。勉強に興味持てないし,本当はウザイ先生の言うことなんて聞きたくないけど,成績に響いたり退学になったりしたら困るので仕方なく・・・。こんな感じです。

 マートンは,文化的目標にコミットメントしておらずとも,そのための制度的手段は(やむなく)承認するような適応様式を「儀礼型」と名づけました。日本の生徒に則していうと,勉強して偉くなろうとは思わないけど,学校をきちんと出ないと落伍者の烙印を押されてしまう,という強迫に突き動かされている人間類型です。上図の結果は,こういう生徒が教室に多くいることを示唆しています。

 こうした儀礼型人間について,マートンは原著で次のように述べています。「外部から観察すると,本人は,謙虚で思慮分別があり,見栄をはらない。自発的な自己抑制によって,彼は,自分の目的や大望を制限し,冒険や危険に伴う快楽をすべて拒絶する」(森東吾訳『社会理論と社会構造』みすず書房,1961年,171頁)。なるほど。日本の生徒と重なり合う面が強いですね。

 このような形だけの儀礼的戦略を幼い頃から行使し続けることで,どういう人格形成がなされるでしょうか。おそらくは,自分の頭で考えることをせず,機械的に周囲に合わせるだけの付和雷同人間ができ上がることでしょう。過剰適応型人間といってもよいかもしれません。わが国の企業社会は,こういう人間類型によって支えられている側面があります。

 今の生徒たちは,学校において儀礼的な戦略を行使することをますます強いられています。昔に比べて,学校という四角い空間の中で勉強することの意義を見出しにくくなっているのですから。さらに悪いことに,その期間も長期化しています(高校進学率95%超,大学進学率50%超!)。

 長期にわたる学校教育の中で,機械的思考しかできない儀礼型人間が産出される傾向は強まっていると思われます。この上に,法を守ることをしない,やりたい放題のブラック企業がはびこっているともいえるでしょう。

 こうみると,上図の4つ象限の中で最も問題と判断されるのは,左下の第3象限であるかもしれません。わが国と同様,受験競争が激しい韓国もこのゾーンに位置しています。何のためかわからずとも,ただ形の上で四角い空間にしがみつき続ける。そういう儀礼的戦略をとる生徒が多い社会です。第4象限のフランスのように,教師の言うことに反発する生徒が多い社会のほうがむしろ健全である,という見方もできます。

 海外の人々を驚かせる日本の生徒の適応様式は,内面の同調を伴わない儀礼的なものであり,いたずらに誇れるものではないことを認識すべきかと思います。

 子ども期が学校化された状況に風穴を開けること,また学校という四角い空間における社会化様式を変革することの必要性は,こういう面からも指摘することができます。