2012年11月30日金曜日

全世帯の所得分布によるジニ係数の推移

 8月10日の記事では,民間企業勤務者の年収分布をもとに,ジニ係数の推移を出してみました。しかしこのデータには,就業していない者や公務員は含まれていません。

 今回は,社会のありとあらゆる層を含んだ統計を使って,わが国のジニ係数の推移を明らかにしようと思います。用いるのは,厚労省の『国民生活基礎調査』のデータです。この資料では,世帯単位の所得分布が明らかにされています。調査対象世帯は,母集団の縮図となっており,当然,非就業者世帯や単身世帯等も含まれます。
http://www.mhlw.go.jp/toukei/list/20-21.html
 
 また,本調査の場合,所得の階級区分が細かいことも特徴です。 25の区切りが設けられています。このデータを使うことで,『家計調査』の10分位階級から出すよりも精緻な形で,ジニ係数を算出することが可能です。

 2011年の『国民生活基礎調査』(所得票)の第2表には,1985年から2010年までの世帯単位の所得分布が,相対度数の形で掲載されています。各年の1月1日から12月31日までの所得分布です。2010年の世帯所得分布は,下表の左端の数値です。


 最も多いのは,300万円台の前半の階級となっています。全世帯の7.2%がこの階級に含まれます。非就業者世帯等も含む,あらゆる世帯の所得分布ですので,こんなものでしょう。

 年収が200万円に満たない世帯は,全体の19.6%です。一方,年収1000万以上の高所得世帯も11.7%存在します。まあ,所得にバラつきがあるのは当然ですが,問題はその度合いです。このデータを用いて,富の配分の格差の度合いを表す,ジニ係数を計算してみましょう。

 まず,100世帯にもたらされた富の総量を出してみます。階級値の考え方に依拠して,各階級に属する世帯の所得は,一律に中間の値で代表させます。たとえば,「50万円以上100万円未満」の階級の世帯は,中間をとって,一律に75万円の所得であるとみなします。

 この場合,「50万未満」の階級に配分された富の量は,25万×1.3世帯=32.5万円となります。その下の階級は,75万×5.2世帯=390.0万円です。25の全階級についてこの値を出し,合算すると,5億3,445万円という額になります。2010年の間に,100世帯にもたらされた富の総量です。

 問題は,この巨額の富が各階級にどう配分されているかです。表の真ん中の富量の相対度数分布によると,200万未満の貧困層には,全体の4.5%の富しか届いていません。逆をみると,1000万以上の富裕層が全富量の3割をもせしめています。

 世帯数の上では2割近くを占める貧困層ですが,彼らが受け取っている富は全体のたった4.5%だけ。反対に,世帯数では1割しか占めない富裕層が,社会全体の富の3割をも占有している。これは少なからぬ偏りといえるでしょう。

 こうした偏りは,右欄の累積相対度数をみると分かりやすいと存じます。黄色のマークをした箇所をみると,所得が400万円未満の世帯は,数の上では46.5%をも占めますが,この層が受け取っている富は,全体のわずか19.5%であることが知られます。

 では,上表の統計を使って,2010年の世帯所得でみたジニ係数を出してみましょう。ジニ係数を出すには,ローレンツ曲線を描くのでしたよね。横軸に世帯の累積度数,縦軸に富量の累積度数をとった座標上に,25の所得階級の値をプロットし,線でつないでできる曲線です。


 上図の青色の曲線が,ローレンツ曲線です。お分かりかと思いますが,世帯の累積度数と富量のそれの隔たり(ズレ)が大きいほど,つまり富の配分の偏りが大きいほど,この曲線の底は深くなります。

 われわれが求めようとしているジニ係数とは,対角線とローレンツ曲線に囲まれた部分の面積を2倍した値です。上図でいうと,ピンク色の部分の面積です。

 極限の不平等状態の場合,この部分の面積は四角形の半分の三角形に等しくなりますから,0.5となります。ゆえに,ジニ係数は1.0となります。逆に,極限の平等状態の場合は,ローレンツ曲線は図中の対角線に一致しますから,ジニ係数は0.0となります。したがってジニ係数は,0.0~1.0までの範囲をとることに留意ください。現存する社会の不平等度は,この両端の間のどこかに位置づきます。

 さて,上図の赤色の部分の面積を求めると,0.200となります。よって,世帯単位の所得分布でみた2010年のジニ係数は,これを2倍して0.400と算出されます。1985年(昭和60年)以降の推移をたどることで,この0.400という値を評価してみましょう。下図をご覧ください。


 ジニ係数はジグザグしながら上昇してきています。この期間中の最大値は,2008年の0.406です。ほう。リーマンショックが起きた年ですね。

 なお,こうした凹凸が激しいデータの推移を均すための手法として,移動平均法というものがあります。ここでは,3年間の移動平均をとることで,推移を均してみました。何のことはありません。当該年と前後両年の3年間の数値を均すだけのことです。たとえば,2000年の数値を均す場合は,1999年,2000年,そして2001年の3年次の数値の平均をとるだけのことです。

 図中の赤線は,この手法でジニ係数の推移を滑らかにしたものです。この曲線から,大局的には,わが国のジニ係数が上がってきていることが分かります。つまり,格差が拡大してきている,ということです。昨今いわれる「格差社会化」の傾向が,上図において可視化されています。

 ちなみにジニ係数の絶対評価ですが,一般にこの値が0.4を超えた場合,社会が不安定化する恐れがある危険信号と読めるそうです。近年の日本のジニ係数は,この危険水域に達しています。少しばかり怖いことです。

 ところで,昨年の7月11日の記事にて,『家計調査』の年収10分位統計から計算した同年のジニ係数は0.336だったのですが,ここのでの値はそれよりも高くなっています。先に申したように,『国民生活基礎調査』では,所得の階級区分が細かいためでしょう。ですが,こちらのほうが現実に近いのではないかと思われます。

 今回は全世帯の所得分布をもとにジニ係数を出しましたが,『国民生活基礎調査』には,18歳未満の児童がいる世帯,ないしは高齢者世帯のみの所得分布の統計も掲載されています。機会をみつけて,こうした特定の層に限定したジニ係数も出してみようと思います。

 仮に,子どもがいる世帯で富の格差が広がっているとしたら,教育機会の格差を媒介にして,貧困の世代間連鎖が起こる可能性が高くなります。これはえらいことです。

2012年11月28日水曜日

空家率と犯罪率の相関

 八王子市は,空家の所有者に適正な管理を義務づける条例の制定を検討しているとのことです。市議会に提出される条例案には,「瓦などの部材が飛散し人がけがをしたり,不審者が侵入して放火や犯罪を誘発したりする恐れがないよう,所有者に管理を義務づける内容」が盛られているとのこと。
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/tokyotama/news/20121122-OYT8T01668.htm

 なるほど。管理が不十分な空家が増えることは,屋根瓦が剥がれ落ちて通行人に当たるなど,危険な面が伴います。

 しかしもっと怖いのは,「犯罪を誘発」する要因となり得ることです。犯罪学の理論に「割れ窓理論」というものがあります。窓が割れたままになっている建物は,管理人がいないと思われ,空巣などの格好のターゲットになります。麻薬などの貯蔵庫に使われることもあります。さらには,近辺に不審者がうろつくようになり,地域の治安が悪化することにもつながります。

  些細な乱れであっても,それを放置(許容)することは,さらなる乱れへと発展します。たとえば,生徒が校内のガラスを叩き割るにしても,最初の1枚を割る時の抵抗は大きいでしょうが,既にどこかが割られているのなら,2枚目,3枚目を割る際のためらいはうんと小さくなります。

 この理論は,些細な逸脱であっても毅然とした態度で取り締まるべしという,「ゼロ・トレランス」の考え方に通じています。米国のジョージ・ケリングによって提唱されたものです。

 さて,この理論が妥当性を持つなら,住居に占める空家の率が高い地域ほど,犯罪率が高い傾向が観察されるはずです。実情はどうなのでしょう。大都市の東京都内の地域データを用いて,吟味してみようと思います。

 まず,都内の市区町別の空家率を出してみましょう。2008年の総務省『住宅・土地統計』から,各地域の住宅総数に占める空家の比率を計算することができます。私が住んでいる多摩市でいうと,空家の数は5,370です。ほう。この市には,5千を超える空家があるのですね。この市の住宅総数は71,780ですから,空家率は前者を後者で除して,7.5%と算出されます。
http://www.stat.go.jp/data/jyutaku/2008/index.htm

 私は,同じやり方で,都内の51市区町の空家率を出しました。最も高いのは千代田区の25.8%,最も低いのは日の出町の7.3%でした。下図は,都内の空家率マップです。空家率の2%区分で,それぞれの地域を塗り分けたものです。


 傾向としては,空家率は都心のほうで高くなっています。地価の関係でしょうか。最高の千代田区の値は25.8%。この区では,住宅4件につき1件が空家ということになります。

 それでは,各地域の空家率を犯罪率と関連づけてみましょう。総務省『統計でみる市区町村のすがた2011』には,都内23区の2009年中の犯罪認知件数が掲載されています。それを同年の各区の人口で除すことで,犯罪発生率を算出しました。人口千人あたりの件数です。

 下図は,横軸に空家率,縦軸に犯罪率をとった座標上に,23区をプロットしたものです。空家率と犯罪率の相関図です。


 空家率が最高の千代田区は,犯罪率も最も高くなっています。23区全体の傾向でみても,空家率が高い苦ほど,犯罪率が高い傾向です。両指標の相関係数は+0.724であり,1%水準で有意です。

 犯罪率が飛びぬけて高い千代田区を「外れ値」として除外すると,相関係数は+0.470となります。これでも,5%の有意水準は保っています。

 地域の犯罪率は,空家率だけに規定されるものではありませんが,両指標の正の相関関係が検出されたことは,注意されてよいでしょう。空家の管理の適正化を図る条例をつくろうという,八王子市の動きは,理に適ったものといえなくもありません。

 全国統計でみると,空家の数,率ともに増加しています。下表は,『住宅・土地統計』の時系列データから作成したものです。


 冒頭で紹介した読売新聞の記事でいわれているように,「核家族化で親の家屋を引き継ぐ世帯が減ったこと」などが,大きいと思われます。

 このような変化が,犯罪の増加要因に転じることを防ぐような対策が求められます。八王子市の条例制定に向けた取組は,その先端に位置するものといえるでしょう。

2012年11月26日月曜日

若者の生活意識

 雇用の非正規化やワープア化の進行など,現代の若者の生活状態はあまりよくないものとみられます。ところで,当の若者たちは,どのような意識を持って日々の生活を送っているのでしょうか。

 「実感なき景気回復」という言葉に象徴されるように,客観的な状況とその中で暮らす人々の意識の間には,ズレがみられることがしばしばです。離れた地点から小手をかざして若者を眺めるのではなく,近くにまで行き,彼らと口をきいてみましょう。といっても,代表性を担保し難い自前のインタビューなどをするのではありません。用いるのは,公的な世論調査のデータです。

 まず注目するのは,現代の生活にどれほど満足しているかです。いわゆる①生活満足度であり,世論調査の最もオーソドックスな設問といってよいでしょう。この問いに対し,「満足している」あるいは「まあ満足している」と回答した者の比率を出してみましょう。

 その次は,②将来展望です。人間にとって希望は重要です。「これから先,生活はどうなっていくと思うか」という設問に対し,「よくなっていく」と答えた者の比率に注目しましょう。①と②の設問は,内閣府の『国民生活に関する世論調査』において設けられています。
http://www8.cao.go.jp/survey/

 これらに加えて,あと2つの意識を取り上げます。社会志向と愛国心の程度です。人間は虐げられた状態におかれると,内向き志向になるといいます。そうでなくとも,いつの時代でも,若者は自己チューだとか公共の精神が足りないとかいわれるのですが,それは本当なのか。この点を診てみようと思うのです。

 ③社会志向については,「国や社会のことにもっと目を向けるべきだ」という意見と「個人生活の充実をもっと重視すべきだ」という意見のどちらに近いかという問いに対し,前者を選んだ者の比率がどれほどかを出してみます。

 最後の④愛国心は,他人と比して「国を愛する気持ちは強い方か」という設問に対し,「非常に強い」ないしは「どちらかといえば強い」と回答した者の比率に着目します。③と④のソースは,同じく内閣府の『社会意識に関する世論調査』です。

 2012年の20代の若者について4指標の値を出すと,①生活満足度は75.3%,②将来展望良好度は26.0%,③社会志向度は50.2%,④愛国心度は37.0%,です。それらしい値ですが,これだけでは何ともいえません。私は,1980年(昭和55年)以降のおよそ30年間の変動幅の中に,この値を位置づけてみました。下表をみてください。


 表の左欄には,この期間中の最大値と最小値が示されています。2012年の生活満足度は75.3%ですが,この値は,過去33年間の変動幅(61.7%~77.5%)の中において高いと判断されます。④の愛国心に至っては,2012年の値は観察期間中で最高です。

 表の右端の数値は,観察期間中の最小値を0.0,最大値を1.0とした場合,2012年の値がどうなるかを表したスコアです。1980年以降の変動幅での位置を表す相対スコアです。以下の計算式にて算出しました。OECDの幸福度指数(BLI)において,各国の指標の値を相対化するのに用いられているものです。

 (2012年の値-最小値)/(最大値-最小値)

 2012年のスコアは,生活満足度は0.87,将来展望良好度が0.41,社会志向度が0.84,愛国心度が1.00,となります。将来展望を除く3つについては,2012年の値は過去に比して高いと判断してよいでしょう。

 さて,このスコアを使って,時期ごとの若者の意識を多角的に診るカルテをつくってみましょう。私は,1980年,1990年,2000年,そして2012年の4指標の値を,同じやり方でスコア化しました。下の図は,これらを用いて作成した,4つの時点の若者の意識カルテです。水準が異なる各指標の値を,同列の基準で評価できるようにしている点がミソです。

 ちなみに,2000年の生活満足度と将来展望良好度は,翌年の2001年のデータを使っていることを申し添えます。『国民生活に関する世論調査』は,2000年は実施されていないためです。


 総体的にみて,現在よりも昔のほうが,図形の面積は小さくなっています。2000年の図形は,識別できぬほど小さいです。この年の将来展望スコアは0.0であり,観察期間中において最も希望閉塞の時期であったことが知られます。私が大学を出た年の翌年ですが,当時の「土砂降り」とも形容される就職難を肌身で知っている者として,まことに分かる気がします。

 しかるに,それから12年を経た2012年になると,図形の面積が一気に拡大します。将来展望はともかく,生活満足度,社会志向,そして愛国心の程度は,1980年やバブル末期の1990年よりも高いのです。

 これをどうみるか。まず若者の生活満足度がアップしていることですが,雇用の非正規化やワープア化が進んでいることを思うと,主観的な生活満足度も低いと思われるのですが,現実はその逆になっています。

 この点については,古市憲寿氏の考察が参考になります。古市氏は,その名も『絶望の国の幸福な若者たち』(講談社,2011年)という著作において,「『今日よりも明日がよくならない』と思う時,人は『今が幸せ』と答える」のだそうです(103~104頁)。逆にいうと,「今日よりも明日がよくなる」という展望が開けているなら,「今は不幸」と答えることになります。
http://www.bookclub.kodansha.co.jp/bc2_bc/search_view.jsp?b=2170655

 なるほど。これからの見通しが開けているのに「今が幸福」と言い切ってしまうことは,そうした展望に蓋(フタ)をしてしまうことと同義です。反対に展望が開けていない場合,今の状態が最高点なのですから,意識の上では「現在の生活に満足」と答える,という論理でしょう。事実,上図にみるように,2012年の将来展望良好度はあまり高くないのです。

 次に,社会志向と愛国心が高いことはどうでしょう。今の若者は自己チューだとかいわれますが,データは,そうしたイメージとは逆の事態を物語っています。まず愛国心が強まっていることは,ワールドカップで日の丸を振りながら「ニッポン,ニッポン」と連呼する若者や,2011年の東日本大震災以降の「がんばろうニッポン,つながろうニッポン」ブームにのって被災地ボランティアに出向く若者の姿を思うと,違和感はありません。

 基本的な生活条件が満たされている現代日本において,空虚感に苛まれた若者が,何らかのコミットメントの対象を求めてのことではないでしょうか。かつての偏狂な国家主義(ナショナリズム)の発生地盤が出てきているのではないか,という懸念もあるようですが,そういうことではないと思います。社会志向の強まりについても,同じ視点から解釈できるでしょう。

 今回の記事では,現代日本の20代の若者の意識を観察したのですが,結果は,一般的にいわれ若者の生活状態から演繹されるであろうものとは違っていました。若者の生活満足度は高く,また一般的なイメージとは異なり,社会志向や愛国心も強いのです。

 しかし,生活満足度が高いことは将来展望が開けていないことと表裏であり,社会志向や愛国心が強いことは,空虚な今を生きる若者がコミットメントの対象を求めていることの表れともみられます。また,さまざまな「縁」から隔絶された若者たちが,自己を承認してくれる「承認の共同体」(古市)を渇望しての結果であるとも読めます。

 上図で示した若者の意識カルテは,一見したところ,好ましい型を呈しています。ですが,その裏には,将来展望閉塞,コミットメントの対象やつながり(縁)の欠乏という問題が横たわっていることを忘れてはならないでしょう。

2012年11月24日土曜日

自損(傷)行為

 現代の若者の逸脱行動として注目されるものに,自傷行為があります。自傷行為とは,自分で自分の身体を傷つける行為の総称であり,壁に頭を打ちつける,自分の頭や顔をたたく,爪でひっかく,噛みつく,さらには手首を切る(リストカット)など,行為形態はさまざまです。

 この自傷行為の数を表す統計がないものか探していたのですが,『東京消防庁統計書』という資料において,自損行為によって救急車で搬送された人間の数が集計されていることを知りました。
http://www.tfd.metro.tokyo.jp/hp-kikakuka/toukei/index.html

 おそらくは,リストカットやオーバードーズなどによって,救急車で運ばれた者の数であると思います。中等度以上の自傷行為の数を表す指標とみてよいのではないでしょうか。

 私は,上記資料のバックナンバーにあたって,1990年から2011年までの年間搬送者数の推移をたどってみました。申すまでもなく,東京都内の統計です。


 自損行為者の数は,1990年代の半ば以降,ぐんと増えています。97年から98年にかけて大きく伸びていること(3,186人→3,719人)は,自殺者の傾向とそっくりです。自殺未遂者数の指標として読んでもいいかもしれません。

 2005年の4,933人をピークにやや減少し,近年は横ばいです。最新の2011年の年間搬送人員数は4,775人となっています。この年の東京の人口は1,319万人ほどですから,10万人あたりの出現率にすると,36.2人となります。

 この値を日本の総人口(1億2千万人)に乗じると,4万3,440人という数が出てきます。わが国の自殺未遂者数の試算値です。年間の自殺者はだいたい3万人ほどですが,その裏には,結構な数の未遂者がいることがうかがわれます。

 話が逸れましたが,上記の4,775人を性別に分解すると,男性が1,765人,女性が3,020人であり,女性のほうが多くなっています。自殺者では男性のほうが圧倒的に多いのですが,自損行為でいうと,女性のほうが多し。そういえば,リストカットなどは,アイデンティティクライシスに悩む若年女性が,生きていることを実感するためになす行為である,というイメージがあります。

 次に,年齢層別にみるとどうでしょう。1990年以降の年齢層別の搬送人員数をグラフにしてみました(隔年)。それぞれの年の各年齢層の数値を,上から俯瞰する社会地図方式です。色の違いに依拠して,大よその数を読み取ってください。


 どの年でも,20代が最も多くなっています。今世紀以降では,20代の搬送者数は毎年1,200人を超えています(黒色)。自損(傷)行為は,やはり若年層で多いことが分かります。

 あと一点,都内の地域別の統計もご覧にいれましょう。上記資料では,都内の市区町村別の搬送人員数も計上されています。救急車が出向いた先の地域に依拠して作成されたものです。私が住んでいる多摩市の場合,2011年の年間搬送人員は45人です。同年10月時点の同市の人口は14万7千人ほどですから,人口10万人あたりの比率にすると,30.7人となります。

 私は,この値を都内48市区について計算しました。4町村は,搬送者の数が少ないので出現率の計算は控えました。稲城市は神奈川県川崎市の管轄なので,搬送人員のデータが載っていませんでした。下図は,これら5市町村を除く48市区の搬送人員の出現率を,地図で表したものです。


 大雑把にいうと,東高西低という構造であり,東の区部において出現率が高くなっています。10万人あたりの出現率が50を超えるのは,千代田区,新宿区,そして台東区です。区部では,単身の若者が多いことを考えると,さもありなんという感じです。

 未だ描かれたことのない,自傷行為マップの試作品として,上図を展示しておきます。

 最近は当局の公表資料が充実してきており,厚労省の『人口動態統計』では,各県内の市区町村別の年間自殺者数も明らかにされています。自殺者の居住地に基づく統計です。これを使えば,市区町村別の自殺率を出すこともできます。機会をみつけて,都内の自殺率マップもつくってみるつもりです。

2012年11月22日木曜日

餓死者数の長期推移

 11月15日の記事では,近年になって餓死者が増えていることをみました。飽食といわれる現代日本での現象であるだけに,注目されるべきことです。

 上記記事では,1997年以降の推移をたどったのですが,今回はもっと遡って,戦後初期の頃からの変化を跡づけてみます。ソースは,厚労省の『人口動態統計』です,今日,総務省統計局の図書館に出向いたので,本資料のバックナンバーにあたって,数字を採取してきました。

 ここでいう餓死者とは,以下の死因による死亡者のことをいいます。

 1950年~1994年 ・・・ 「栄養欠乏」+「飢え,渇,不良環境への放置」
 1995年以降 ・・・ 「栄養欠乏」+「栄養失調」+「食料の不足」

 1994年までの「栄養欠乏」の中には,栄養失調も含まれます。95年以降は,栄養欠乏と栄養失調のカテゴリーが分かれているので,整合性を持たせるため,両者を合算しました。11月15日の記事では,「栄養失調」と「食料の不足」を足した数を餓死者としましたが,今回の分析では,栄養欠乏も加えています。ゆえに,先の記事とは数が異なることに留意ください。

 上記の意味での餓死者数は,1950年から2011年の約60年間において,下図のように推移してきています。


 食べ物にも事欠いていた戦後初期の頃では,餓死者が多かったようです。1950年(昭和25年)では,9,119人。しかし,社会が安定するとともに餓死者数はぐんぐん減り,10年後の1960年には1,362人にまで減少します。

 高度経済成長期が終わる頃の1970年には622人となり,以後,70年代から80年代にかけては大よそ500人前後で推移します。

 陰りが見え始めるのは,1990年代以降です。この時期から餓死者数は増加に転じ,阪神大震災が起きた1995年には1,000人を超えます。今世紀初頭の2001年には1,500人を超え,それから10年を経た2011年現在では2,053人となっています。とうとう2,000人突破です。

 現在の餓死者数は,1950年代後半の頃の水準に立ち戻っています。90年代以降の不況や孤族化の影響がまざまざと表れています。

 最近10年間のトレンドでいうと,餓死者の年間平均増加数は50人ほどです。今後もこの傾向が続くとすると,今から20年後の2030年あたりには,餓死者数は3,000人を超えることが見込まれます。これは,1954年の数と同じくらいです。

 餓死者数の恐怖のU字カーブが描かれることになるのか。加速度的に進む高齢化・孤族化,そして生活保護制度の抜本見直しなど,そうした事態が実現することの条件が多く出てきています。生活保護の不正受給はけしからぬことですが,生存権を保障するための最後のセーフティネットを根こそぎ破壊することがあってはなりません。

 雨宮処凛さんの『14歳からわかる生活保護』(河出書房新社,2012年)を,図書館から借りてきました。こういう本を読んで,知的武装を図ることも大切かと。
http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309616766/

2012年11月21日水曜日

晴天の都立桜ヶ丘公園

 昨日に続いて今日も晴天でした。こういう日は外に出るべし。昼下がり,自宅近くの都立桜ヶ丘公園をちょいと歩いてみました。
http://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index065.html

 メインロードと小高い丘からの眺望を2枚載せます。



 園内には,明治天皇も数回訪れたとされる,旧多摩聖蹟記念館もあります。今日はそっちには行かなかったので,写真は後日。

 ブログに写真を載せるのは,自分にとってのアルバムをつくることにもなります。ブログの語源は,WebにLog(記録)することです。ブログは,情報の発信機能とともに,それを蓄積する機能をも果たします。

 アルバムは概してかさばるものですが,ブログならスペースいらず。わが子の成長の過程を,写真つきでブログに綴っている親御さんもいるようですが,後々,思い出をクリック一つで呼び出せるのでとても便利ですよね。

 もっとも,色あせた写真が詰まったアルバムのほうが含蓄がある,という見方もあるでしょうが。

2012年11月20日火曜日

学歴別の初任給

 11月15日に,2011年の厚労省『賃金構造基本統計』の初任給調査結果が公表されました。新規学卒者の初任給を,学歴別に知ることができます。それをご紹介します。
http://www.mhlw.go.jp/toukei/list/chingin_zenkoku.html

 用語解説によると,初任給とは,「2011年に採用し,6月30日現在で実際に雇用している新規学卒者の所定内給与額から通勤手当を除いたものであり,かつ,2011年6月30日現在で2011年度の初任給額として確定したもの」だそうです。調査対象は,10人以上の事業所とのこと。

 下表は,男子新規学卒者の初任給月額を,学歴別に整理したものです。業種ごとの違いにも注意しています。


 初任給額は,学歴によって違っています。高学歴の者ほど,多い額を得ています。「そんなの,分かり切ったことじゃん」といわれるかもしれませんが,そもそも学歴によって給与が異なるのはなぜでしょう。

 単純な人的資本論によると,人は,教育を受ければ受けるほど生産性が向上すると考えられます。よって,高学歴者は高い給与を得て然るべし,ということになります。

 とても分かりやすいロジックですが,「学歴と生産性が比例する」という前提は,怪しいものにも思えます。表をよくみると,大卒と大学院卒の初任給の差が最も大きいのは,卸売業・小売業です。この業種での新規採用者がやる仕事の大半は,店頭での接客でしょう。大学卒よりも,修士論文を仕上げた修士卒のほうが,接客スキルが上なのか。明らかに?です。むしろ,逆であることのほうが多いのではないでしょうか。
 
 企業が学歴で給与に差をつけるのは,生産性を厳密に査定するのは面倒なので,それを手っとり早く測るシグナルとして学歴を利用する,という理由によることがほとんどです。とくに,情報が乏しい新規採用者の初任給については,ほぼ100%学歴に依拠して決められるといってよいでしょう。

 なるほど。企業が大学院修了者を雇うのを嫌がるのも,分かろうというものです。即戦力となるスキルがあるかどうか怪しいにもかかわらず(ない場合が多い),形の上では高い給与を払わねばならないわけですから。文系の院修了者に至ってはなおさらです。

 そういえば,11月19日の「ダイヤモンド・オンライン」に,面白い記事が載っていました。「一度レールを外れるとバイトにすら就けない!高学歴ワーキングプアの抜け出せない苦しい現実」と題するものです。
http://diamond.jp/articles/-/28112

 この記事では,博士号を取得した後,関東の某大学で10年以上研究員を勤めたものの,上司の教授との折り合いが悪くなり,雇い止めとなった女性のケースが紹介されています。

 この女性は研究職を諦めて職探しをするのですが,「博士さまを,社員として雇う会社はない」と立て続けに断られます。当面の糊口をしのぐため,ちょっとしたバイトをしようと履歴書を出せば,以下のように怒鳴られたとのこと。

 「こんな高学歴なのに,うちでバイトしたいというのか? ふざけているのか?」

 「バイトにすら就けない」という,記事のタイトルのフレーズ,偽りなしです。雇う側にすれば,博士号という最高学歴保有者に対しては,とてつもなく高い給与を払わねばならない,という思い込みがあるのでしょう。

 多くの企業は,求職に訪れた人間の価値を,年齢や学歴といった分かりやすい属性で判断します。このことは,今問題になっている「高学歴ワーキングプア」が発生することの条件をなしています。9月4日の記事でみたような,大学院博士課程修了者の惨状も,このことに由来するとみられます。

 先の女性については,「あなたは経歴からして,本社の業種は初心者であるとみられるので,給与はそれなりの額でいいですか」と聞くことができないのでしょうか。アメリカでは,このようなことを口にしたら,求職者の側から訴えられるという話を聞きますが,そういうことを恐れているのでしょうか。

 しからば,数カ月のトライアル雇用でもして,生産性の程度を可視化したうえで,給与の合意に踏み切ればよさそうなものですが,それはコストと労力がかかるのでご免こうむりたい,ということでしょうか。

 城繁幸氏は,仕事に給与を割り当てる「職務給」の導入を提言していますが,私もそれに賛成です。それが普及すれば,「低学歴者=生産性不足,高学歴者=高給取り」という機械的な図式に由来する学歴差別の問題も解消されることでしょう。
 
 この案の実現の度合いは,冒頭でみた学歴別の初任給統計の有様によって教えられることになります。今後も,注目していきたいデータです。

2012年11月18日日曜日

教員の同業婚

 批判を込めていうのではないですが,教員は視野が狭いといわれます。子ども期を終え,就職した後もずっと学校で過ごすのですから,学校の外の社会に接する機会を持ち得ないわけです。

 このことにかんがみ,教員研修の中に,「社会の構成員としての視野を拡大する等の観点から,現職の教員を民間企業,社会福祉施設等学校以外の施設等へ概ね1か月から1年程度派遣して行う研修」が組み込まれています。長期社会体験研修というものです。2010年度では,543人の教員が民間企業等に派遣されたとのこと(文科省調べ)。
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/kenshu/index.htm

 ところで,教員の生活世界が狭いことをうかがわせる統計があります。同業婚の多さです。PISA2006の生徒質問紙調査では,対象の15歳の生徒に対し,両親の職業を尋ねています。この結果を使って,職業別の同業婚率を試算してみました。用いたのは,同調査のローデータです。
http://pisa2006.acer.edu.au/downloads.php

 Q8aでは,父親の職業を問うています。職業名を記入してもらい,それを後から分類するアフターコード形式です。日本の生徒の回答をみると,有効回答を寄せた5,475人のうち,247人の回答が"TEACHING PROFESSIONALS"と括られています。小・中・高の教員のほか,特別支援学校教員,大学教員,視学官,および他の教育専門職も含む雑多なカテゴリーですが,多くは小・中・高の教員であると思われます。以下では,単に「教員」ということにしましょう。

 Q5aでは,母親の職業を聞いています。先ほどの設問への回答とのクロスをとると,父の職業が教員である247人のうち,110人の生徒が,母の職業も教員と分類されています。この結果をもとにすると,男性教員のうち,妻も教員であるという者の比率は,110/247 ≒ 44.5%となります。この値をもって,同業婚率とみなしましょう。男性の側からしたものです。

 ほう。教員の場合,同業婚率は半分近くにもなるのですね。はて,この値は高いのか低いのか。他の職業と比べてみましょう。19の職業カテゴリーについて,同じやり方で同業婚率を出してみました。当該職業の父を持つ生徒数(a)が50人に満たないカテゴリーは,分析の対象としていません。

 職業カテゴリーの名称は,コードブックに記載されている英文表記を転写しました。私の拙い英語力で訳すよりも,こちらのほうがよいと考えたからです。


 教員の同業婚率は,19の職業カテゴリーの中で最も高くなっています。その次が,熟練農漁業労働者(6100)で,38.3%となっています。農村の第1次産業では,同業の夫婦の共働きが多いためでしょう。

 3番目は,医療専門職(2200)です。同業婚率35.2%なり。お医者さんなどは,階層的閉鎖性が結構強そうだなあ。

 ここで出したのは,子どもの回答を介した同業婚率です。子がいない夫婦はオミットされています。多忙のゆえか,教員はDINKSが結構多いような印象を持ちますが,子がいない夫婦も加味したら,教員の同業婚率はもっとアップしたりして・・・。

 大雑把な職業カテゴリーであることに注意を要しますが,教員の同業婚率が高いことを知りました。咎めるようなことではありませんが,先に述べたように,教員の生活世界が狭いことを示唆しているように思います。

 教員にあっては,結婚の半分近くが,職場での出会いによる同業婚。学校という職域が生活構造の多くを占め,家庭やその他第3の場での生活が圧迫されているのではないでしょうか。

 現在,教員免許更新制導入など,長期休業中まで,教員の生活の「学校化」を押し進める政策がとられています。8月14日の記事でも申しましたが,休みの期間くらい,教員をして「黒板とチョークの世界」から解放すべきであると存じます。8月28日の中教審答申がいうところの,「総合的な人間力」を培養するためにもです。
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/1325092.htm

 あと一点。5月11日の記事でみたように,教員の自殺原因では,「夫婦間の不和」というものが比較的多いのですが,同業婚が多いことからすると,お互い多忙で,知らぬ間に夫婦関係に亀裂が走る,というようなことが多いのかもしれません。学校のみならず,癒しの場であるはずの家庭までもが「戦場」と化したのでは,たまったものではありますまい。

 私は,現代の教職危機というのは,生活者としての教員のトータルな生活構造の面から考察しなければならないと考えています。同業婚を通して,教員の生活構造の歪み・偏りが透けて見えるような気がします。

 蛇足ながら,今朝撮った写真を一枚。自宅近くから撮った富士山です。名づけて「朝富士」。


 では,よい休日を。

2012年11月16日金曜日

紅葉の高尾山

 今日は,非常勤の授業の帰りに,高尾山に行ってきました。京王線の高尾山口駅からちょっと歩いて,エコーリフトで登ること約15分。展望台に到着です。そこからの眺めは壮観なり。


 まずは北側を一枚。中央道が写っています。この季節ですので,葉っぱが色づいています。澄みわたる青空と紅葉のコントラストがナイス。


 続いて都心方面です。天気がいい日はスカイツリーも見えるそうですが,ここには写っていません。方向を外したかしらん。

 高尾山の紅葉は,11月の下旬頃までが見頃だそうです。近場ですので,足を運ばれてはいかがでしょう。リフトで登った後,徒歩で標高599メートルの頂上まで登ってみるのもよし。ただし,山頂は冷えますので厚着で行かれますよう。
http://www.takaotozan.co.jp/

 ところで高尾山のリフトですが,勾配が急で,しかもシートベルトがついてないので,下りは結構怖いです。眼下に広がる景色の中に,いきなり投げ出されるかのような感触を持ちます。そういうのはちょっと・・・という方は,並行して走るケーブルカーにしたほうがよいかもしれません。

 私は出不精ですが,こういう行楽の機会を意図的に設けています。ただ,いつも一人というのが何とも寂しいのですが・・・。

2012年11月15日木曜日

餓死

 2007年7月,北九州市で,50代男性のミイラ化した遺体が発見されました。死因は餓死。傍らの日記には,「おにぎりが食べたい」と記されていたそうです。

 この男性は,就労できないにもかかわらず生活保護を打ち切られ,その後飢餓状態に苦しみ,餓死するに至ったとのことです。この事件は,わが国の生活保護の在り方を問い質す,「おにぎり食べたい事件」として広く知られています。

 今の日本で餓死なんてあるのかと思われるかもしれませんが,格差社会化とともに,いざという時に助けてくれる「縁」を持たない人間が増える孤族化も進行しています。前回の記事では,孤独死が増えていることをみました。こうした社会変化は,上記のような悲劇が生じる条件を準備しているといえます。

 飽食といわれる現代日本において,餓死する人間はどれほどいるのでしょう。厚労省の『人口動態統計』では,細かい死因ごとに死亡者の数が計上されているのですが,そこで設けられている死因カテゴリーに,「食糧の不足」と「栄養失調」があります。

 この2つを足し合わせた数が,餓死者数の近似値であるとみてよいでしょう。厳密にいうと,後者の栄養失調は「食物の摂取不足,または摂取は十分でも消化・吸収の悪い時,あるいは食物の成分の不均衡,特に蛋白質の不足により現れる異常状態」(広辞苑)であり,全てが飢餓に由来するとは限りません。近似値という断りを入れるのは,このためです。ただし,以下では餓死者数ということにします。

 『人口動態統計』の死因小分類については,1997年以降の結果をネット上で閲覧できます。私は,この年以降の餓死者数の推移をたどってみました。
http://www.mhlw.go.jp/toukei/list/81-1.html


 若干の凹凸はありますが,餓死者は年々増加しています。2011年の年間数値は1,746人です。1997年に比して1.7倍になっています。総人口は約1億2千万人ですから,確率的には「数万人に1人」というところですが,飽食の現代日本において,餓死が増えていることは注目されます。おそらくは,格差社会化,孤族化というような社会変化の影響が大きいことと思われます。

 次に,年齢層別のトレンドもみてみましょう。冒頭の「おにぎり食べたい事件」の餓死者は50代でしが,統計的には,どの年齢層で餓死は多いのでしょうか。前回と同様,それぞれの年の各年齢層の数値を上から俯瞰する「社会地図」形式で結果を表現します。


 餓死者は高齢層で多くなっています。2005年以降,80代では毎年500人以上の餓死者が出ています。①身体が弱ってくるという生理的要因,②働き口がないという社会的要因,そして③孤族化という近年固有の要因が,高齢層の餓死の増加をもたらしているものと思われます。社会的な介入が要請されるのは,②と③に対してです。

 なお,餓死が増えているのは高齢者だけではありません。私の年齢層(30代)でも,1997年の26人から2011年の32人へと増加をみています。働き盛りだから大丈夫という予断は禁物です。若年のホームレスが増えているという報告もあります。

 現代日本は,物質的には豊かな社会であるといわれます。ですが,「豊かさの中の貧困」は,近年,確実に広がってきています。生活保護受給者の増加,貧困率の上昇など,それを立証するデータは数多し。今回みた餓死者数も,そのうちの一つです。

2012年11月13日火曜日

孤独死

 現代日本では,血縁,地縁,社縁など,あらゆる「縁」から断絶された,孤独な人間が増えているといわれます。無縁社会の到来です。2010年11月に刊行された,NHK無縁社会プロジェクト取材班『無縁社会-無縁死3万2千人の衝撃-』(文藝春秋)は,大きな反響を呼びました。
http://www.bunshun.co.jp/cgi-bin/book_db/book_detail.cgi?isbn=9784163733807

 この本では,誰にも看取られることなく息絶え,かつ遺骨の引き取り人もいない,無縁死を遂げた人間の数が明らかにされています。その数が,副題に掲げられている「3万2千人」であるとのことです。これは,年間の自殺者よりも少し多い数に相当します。

 本書で無縁死とされているのは,行旅病人及行旅死亡人取扱法第1条2項がいう「住所,居所若ハ氏名知レス且引取者ナキ死亡人」です。このような形の死亡者は,自治体が火葬・埋葬することとされています。その件数を,NHK取材班が全国の自治体に問い合わせ,総計した結果,上記の数になったということです。

 さしあたりこの数が,無縁死の量を最も正確に表現しているとみてよいでしょう。ですが,時系列推移をたどれない,属性別の数を知ることができない,という不満も残ります。そこで,何か別の尺度はないかと探したところ,厚労省『人口動態統計』の死因統計の中に,「立会者のいない死亡」という死因カテゴリーがあることに気づきました。

 「診断名不明確及び原因不明の死亡」という大カテゴリーに含まれる,小カテゴリーの一つです。死亡時に立会人がおらず,死因を特定できない死亡者です。原因不明の死亡に限定されますが,誰にも看取られることなく息絶えた人間の数を表していることは確かです。

 私は,「立会者のいない死亡」という死因カテゴリーに相当する死亡者の数をもって,無縁死の量を測ることとしました。なお,「孤独死」という言い方のほうがポピュラーであると思うので,以下ではそういうことにします。

 まずは,この数の時系列推移をたどってみましょう。『人口動態統計』については,政府統計の総合窓口(e-Sata)にて,1997年以降の結果を閲覧することができます。この年から2011年までの間に,立会者のいない死亡者の数がどう変化したかを跡づけました。以下では,孤独死者といいます。
http://www.mhlw.go.jp/toukei/list/81-1.html


 孤独死者の数は,年々増えています。世紀の変わり目に1,000人を超え,リーマンショックの翌年の2009年には2,000人に達しました。最新の2011年の年間数値は2,304人です。均すと,1日に約6人に割合で孤独死者が出ていることになります。
 
 NHK取材班が明らかにした「3万2千人」よりもかなり少なくなっていますが,これは,原因不明の死亡に限定されているためと思われます。ちょっと「?」がつく数字ですが,先に記したように,孤独な死を遂げた人間の数であることは間違いないので,孤独死の現実数の相似値であるとみなす分には問題ありますまい。

 原因不明の死亡に限られているというデメリットがありますが,それに代わるメリットもあります。属性別の数が分かることです。孤独死というと高齢者に固有の現象とみられがちですが,そうとは限りません。私くらいの年齢層でも起こり得ることです。上表の孤独死者数のトレンドを,年齢層別に分解してみましょう。

 結果を一覧表で示すのは煩雑ですので,表現方法を工夫します。各年・各年齢層の孤独死者数を,上から俯瞰することのできる図をつくりました。恩師の松本良夫先生が考案された,社会地図図式です。


  該当箇所の孤独死者数の概数が色で示されています。たとえば,2011年の60代の孤独死者数は699人ですから,黒色になっている次第です。

 ざっとみてどうでしょう。時の経過とともに,50~70代あたりの部分に怪しい色が広がってきています。現在では,孤独死者数が最も多いのは60代です。2011年でいうと,60代の数(699人)が,全体の30.3%を占めています。

 年齢が高いほど孤独死が多い,ということではなさそうです。80代や90代になると,施設に入所する高齢者が多いためと思われます。

 ところで,若年層でも孤独死が増えてきています。私が属する30代でいうと,1997年では16人でしたが,2011年では97人です。未婚,ニート,ヒッキーなど,若年層の孤独を言い表す語は数多し。今後は,若年層の動向にも目配りする必要があるでしょう。

 上図は,「孤独死化」という,現代日本社会の病理兆候を可視的に表現した図ととってください。次回は,同じく『人口動態統計』の死因統計を使って,また違った面の病理を表現してみようと思います。それは「餓死化」です。

 ではこの辺りで。

2012年11月11日日曜日

生徒の理系志向と理科の授業スタイルの関連

 前々回と前回の記事において,日本の15歳女子生徒の理系志向は世界的にみて最下位であること,また理系志向の男女差が大きいことを知りました。

 あまり誇れたことではないですが,なぜこういう事態になっているのでしょう。国際学力調査の結果でみる限り,わが国では,理系教科の学力に有意な性差はないとのことです(藤原千賀『男女共同参画社会と市民』武蔵野大学出版会,2012年,25~26頁)。

 大きいのは,女子の理系志向を頭ごなしに抑えつける(否定する)ジェンダー規範でしょう。「女子なのに理系なんて・・・」。わが国は,男(女)はかくあるべしというジェンダー規範が強い社会であるといわれます。私が高校の頃も,理系の学部に進学するのを親に反対されているという女子がいたっけなあ。

 しかるに,それだけではありますまい。数学が何たるものか,理科が何たるものかを生徒が学ぶのは,学校での日々を授業を通してです。そうである以上,理系教科の授業スタイルがどういうものかも看過できない要因です。

 私自身,高校の頃受けた理科の授業に,あまりいい印象は持っていません。教科書の内容は2年までの間に終わらせて,3年時の授業は大学受験のための補習に充てるような高校でしたので,スーパー「詰め込み」授業でした。まあ当時は,理科なんてこんなもんだろうと,諦めていたのですが。

 しかし,大学に入ってから受けた「理科教育法」の授業で,認識が変わりました。担当の教授曰く。「物理学というのは,空がなぜ青いのかを教えてくれる学問である。それなのに,日本の理科の授業では,数式や公式をがむしゃらに教え込んでいる。これでは,この学問が嫌われても仕方がない」。全くその通りだと思いました。

 「なぜ**なんだろう」という,初発の問題意識を生徒の内に喚起させることをしない(それを生徒が持っていても度外視する)。実験や討議のような,知識に至るまでの科学的な道程を経ることもしない。ただ,既製の知識を湯水のごとく注ぎ込むだけ。これでは,理科嫌いの生徒が多くなろうというものです。

 私は先日,「高校理科の授業スタイルの国際比較」という文章を,シノドスジャーナルに寄稿しました。PISA2006の生徒質問紙調査のデータを使って,各国の理科の授業が,どれほど実験や討議等を重視する「開発主義」的なものかを計測したものです。開発主義とは,課題探求力のような,生徒の諸能力の開発に重きを置く教授スタイルをいいます。
http://synodos.livedoor.biz/archives/1990703.html

 そこで分かったのは,日本の理科の授業の開発主義度が,57か国の中で最低であることです。逆にいうと,「知識注入主義」的な授業がはびこっているのではないか,という問題が提起されます。

 となると,わが国の生徒の理系志向が少ないのは,こうした授業スタイルに由来する面があるのかもしれません。今回は,この点を吟味することにいたしましょう。

 最初に,各国の理科の授業がどれほど開発主義的なものかを数量化してみます。PISA2006の生徒質問紙調査のQ34では,対象の15歳生徒(高校1年生)に対し,「理科の授業で,次のようなことがどれくらいあるか」と尋ねています。


 生徒のアイディアを尊重する,実験や討議を行うなど,いずれも開発主義型の授業に関連する項目です。この17項目への反応を合成して,各国の理科の授業の開発主義度を測る尺度をつくります。

 「1」という回答には4点,「2」には3点,「3」には2点,「4」には1点のスコアを付与します。これによると,各生徒が受けている理科の授業の開発主義度は,17点から68点までのスコアで測られます。全部1に丸をつける,バリバリの開発主義授業を受けている生徒は68点です(4点×17=68点)。その対極の最低点は17点となります(1点×17=17点)。

 私は,上記調査のローデータ(未加工データ)にあたって,調査対象の57か国,33万8,590人の生徒について,このスコアを計算しました。17項目のすべてに漏れなく有効回答を寄せた生徒たちです。ローデータは,下記サイトからDLできます。
http://pisa2006.acer.edu.au/downloads.php

 下図は,日本,アメリカ,そして57か国全体について,スコアの分布を図示したものです。日本の場合,5,587人の生徒のスコア分布が描かれています。


 ほう。山型,右寄り型,そして左寄り型の曲線ができあがっています。日本は低得点層が多く,アメリカは高得点層が多くなっています。57か国全体の場合,各国の傾向が均されるため,中層部に山があるノーマルカーブになっています。

 上図の分布から平均点を出すと,日本は29.1点,アメリカは43.5点となります。両国では,理科の授業の開発主義度が大きく違います。アメリカでは,わが国比して,実験や討議を重視する開発主義型の理科の授業が行われていることが知られます。

 私は,57か国について,上記スコアの平均値を出しました。最高はカザカフスタンの48.7点,最低は日本の29.1点なり。

 わが国の値が最低なのはさておいて,理科の授業の開発主義度スコアが,前々回の記事で出した,女性生徒の理系志向スコアとどう相関しているかをみてみましょう。後者は,上記PISA調査のQ29への回答結果をもとに明らかにした数値です。


 結果は,強い正の相関です。実験や討議に重きを置く,開発主義的な理科の授業を行っている国ほど,女子生徒の理系志向が高い傾向です。相関係数は+0.797であり,1%水準で有意です。

 生徒の初発の問題意識を尊重し(問題意識を植えつけ),そこから出た仮説を実験や討議で検証し,知識へと至る・・・。こういう科学の醍醐味を生徒が頻繁に味わっている国ほど,生徒の理系志向が高くなるというのは,ある意味,道理です。上図は,それを実証するデータの一つです。

 ちなみに,前回の記事で出した男子生徒の理系志向スコアとは,+0.742という相関です。微差ですが,男子よりも女子のほうが,授業スタイルの有様に影響を受ける度合いが高いことが示唆されます。

 こうみると,わが国の女子生徒の理系志向が低いのは,ジェンダー規範だけではなく,教育実践の有様とも関連していそうです。女子において相関係数値が高いことからして,後者の影響は前者をしのぐのではないかと思われます。

 授業スタイルの変革によって,生徒(とくに女子)の理系志向を高めることが可能であるというように,前向きに受け止めてもよいのではないでしょうか。むろん,ある社会において,理科の授業が開発主義的であることと,生徒の理系志向が高いことは,根を同じくする現象である可能性も否定できませんが・・・。

 その気になれば,個人単位のデータを使って,両変数の関連を検討することもできますが,同じテーマが続くので,いったん切りましょう。時間を置いてからの課題といたします。

2012年11月9日金曜日

理系志向の男女差の国際比較

 前回の続きです。今回は,各国の女子生徒の理系志向が,理科の授業の有様とどう関連しているかを明らかにすると,予告しました。

 しかるに,その前にやっておくべき課題があることに気づきました。男子生徒の理系志向も数値化することです。わが国の女子生徒の理系志向が国際的にみて低いことは分かりましたが,男子と比べてどうなのでしょう。仮に男女差が大きいなら,ジェンダー(gender)の問題が絡んできます。

 ジェンダーとは,社会的・文化的につくられる性です。身体機能や生理機能のような性(sex)とは,概念上区別されます。たとえば,「男子は泣かない」,「女子は控えめに」という通念など,幾多の例を想起できます。

 わが国は,ジェンダー規範が強い社会であるといわれます。女子生徒の理系志向を頭から抑え込むジェンダー規範が,明にも暗にも作用していないとも限りません。この点は,男女の違いをみてみないと分かりません。わが国の15歳生徒の理系志向は,男女でどれほど違うか。また,差の程度は国際的にみてどうなのか。今回明らかにしたいのは,こういうことです。

 私は,PISA2006の生徒質問紙調査のQ29への回答結果を合成して,対象の15歳生徒の理系志向を測る尺度をつくりました。4点から16点までのスコアです。値が高いほど,当該生徒の理系志向が強いことを意味します。仔細は,恐れ入りますが,前回の記事をご覧ください。

 下図は,わが国の男子生徒と女子生徒のスコア分布を図示したものです。男子生徒2,989人,女子生徒2,937人のスコア分布が描かれています。


 ピークに注意すると,男子は8点,女子は4点にあります。最低点の生徒の比率は,男子では20.6%(5人に1人)ですが,女子では34.8%(3人に1人)です。その分,高得点層の比重は,女子よりも男子で大きくなっています。

 上図の分布から,男女のスコア平均を出すと,男子は8.3点,女子は6.9点です。予想通りといいますか,理系志向は,女子よりも男子で高いようです。平均スコアの差にして,1.4ポイント開いています。

 はて,こうした男女差の程度は,国際的にみてどうなのでしょう。私は,日本を含む57か国について,男女生徒の理系志向スコアの平均値を計算しました。男女双方についてベタなランク表を提示するのは,スペースをとりますし芸がないので,表現法を工夫します。

 横軸に男子生徒の理系志向スコア平均,縦軸に女子生徒のそれをとった座標上に,57の国をプロットしてみました。わが国の位置(8.3点,6.9点)の位置をご覧ください。


 まずスコア平均の水準をみると,日本の場合,女子は57か国中最下位ですが,男子はそうではないようです。57か国中40位なり。

 図の斜線は均等線です。この線よりも下にある場合,女子よりも男子の理系志向が強いことを示唆します。上にある場合は,その逆です。日本は均等線よりも下に位置し,かつ,この線からの垂直方向の距離も大きくなっています。つまり,理系志向の男女差が大きい,ということです。

 まあ,女子よりも男子の理系志向が強い国がほとんどですが,わが国は,その程度が大きい社会であるといえましょう。ちなみに,スコアの性差が最も大きいのは,台北です。男子は9.7点,女子は7.9点であり,1.8ポイントもの差があります。日本はその次なり。

 なお,男子よりも女子の理系志向が強い国があることにも注意しましょう。斜線よりも上に位置している国です。インドネシア,タイ,コロンビアなどは,この種の社会に該当します。

 さて,わが国は,男子と女子の理系志向の差が大きい社会であることが分かったのですが,それはなぜでしょう。前回紹介した藤原教授の『男女共同参画社会と市民』(武蔵野大学出版会,2012年)によると,数学や理科の能力に性差はなく,「女性は数学・理科に弱いのだ,生まれつき女と男は違うのだという思いこみ」が大きいのではないか,ということです(26頁)。
http://www.musashino-u.ac.jp/shuppan/books/detail/bookdanjo.html

 こうした思い込みは,家庭でのしつけや,学校での日々の役割分担等を通じて獲得されていくとのこと。後者は,「かくれたカリキュラム」という,教育社会学の重要概念にも通じます。わが国の女子生徒の理系志向が少ないのは,客観的な能力差というよりも,未だ蔓延っているジェンダー規範のゆえであるといえそうです。

 インドネシアやタイなどの新興国では,こういうことがあまりないのだろうなあ。社会の発展のため,女子の理系能力をガンガン活かす方策がとられているのかも。

 ところで,インドネシアやタイでは,実験や討議を重視する開発主義的な理科の授業が行われています(「高校理科の授業スタイルの国際比較」)。こういう教育面の要因も効いていると思われます。次回は,この点を吟味することにいたしましょう。

2012年11月8日木曜日

女子生徒の理系志向の国際比較

 武蔵野大学の藤原千賀教授より,『男女共同参画社会と市民』(武蔵野大学出版会,2012年)を謹呈いただきました。構成のバランスがよく,主要分野について,男女共同参画やジェンダーに関連する統計資料が数多く提示されており,とても参考になります。
http://www.musashino-u.ac.jp/shuppan/books/detail/bookdanjo.html

 私がとくに関心を持ったのは,2章の「教育・学習分野の男女共同参画」です。24頁に,大学生の女性比率が専攻分野別に掲げられているのですが,工学は10.6%,理学は25.8%,医科・歯科は33.6%というように,理系の分野では,女子学生が殊に少なくなっています(2004年,『学校基本調査』)。

 世の中には男女が半々ずついることを考えると,これはすごい偏りといえます。まあ,文系には女子が多く,理系には男子が多いというのは,よく知られていることですが,女子の理系志向が少ないことは,わが国に固有のことなのでしょうか。

 今回は,日本の女子生徒の理系志向を数量化し,その値を国際データの中に位置づける作業をしてみようと思います。

 毎度使っているPISA2006の生徒質問紙調査のQ29では,対象の15歳の生徒(わが国は高校1年生)に対し,「以下のことがどれほど当てはまるか」と尋ねています。


 いずれの項目も,理系志向の強さを測る尺度として使えます。「1」という回答には4点,「2」には3点,「3」には2点,「4」には1点,というスコアを与えましょう。この場合,対象となった生徒の理系志向の強さは,4点から16点までのスコアで計測されます。全部1に丸をつける,バリバリの理系志向を持った生徒は16点となります(4点×4=16点)。逆に,全部4を選ぶ理系忌避型は4点となる次第です。なお,いずれかの項目に無回答ないしは無効回答がある生徒は,分析から除きます。

 私は,上記PISA調査のローデータに当たって,対象の57か国,19万6,490人の女子生徒について,このスコアを計算しました。以下では,理系志向スコアといいます。下図は,57か国全体,日本,そしてアメリカのスコア分布を図示したものです。カッコ内は,サンプル数です。日本の場合,2,937人の女子生徒の分布が描かれています。
http://pisa2006.acer.edu.au/downloads.php


 いかがでしょう。57か国全体とアメリカの場合,ピークは8点です。8点とは,4項目全てに「3」(そう思わない)と回答した場合の点数です。57か国全体でみたら,平均的な女子生徒の姿はこんなものでしょうか。

 さて日本はといえば,同じく8点の生徒が3割ほどで多いのですが,それよりも多数なのは4点の生徒です。4点ということは,全項目に対し「4」(全くそう思わない)と答えたことになります。わが国では,女子生徒の34.8%(3人に1人)が,この最低点の生徒です。

 上図の分布を簡略な代表値で要約しましょう。何のことはありません。ただ平均(average)を出すだけです。日本の場合,以下のようにして求められます。

 {(4点×34.8)+(5点×8.0)+(6点×5.6)+・・・(16点×1.7)}/100.0 ≒ 6.9点

 6.9点(≒7.0点)ということは,3項目に「3」,1項目に「4」と答えた場合のスコアに相当します。これが日本の女子高生の平均的な理系志向のようです,

 それでは,このスコア平均を他の56か国についても計算し,高い順に並べてみましょう。わが国の値(6.9)は,どこに位置づくか??


 わが国の女子生徒の理系志向スコアは,57か国中最下位です。4つの項目から切り取った,限られた断面だけをみたものですが,日本の女子生徒の理系志向は,国際的にみて低いことが知られます。

 これは現実ですが,次なる関心は,上図の各国のスコアが,どういう要因と関連しているかです。上位2位は,チュニジアとカザカフスタンです。下位2位は,韓国と日本です。私はこの両端をみて,先日シノドスジャーナルに寄稿した文章のことを思い出しました。「高校理科の授業スタイルの国際比較」と題するものです。
http://synodos.livedoor.biz/archives/1990703.html

 この文章では,同じくPISA2006のローデータを使って,57か国の高校理科の授業が,どれほど実験や討議を重視する開発主義的なものかを測ったのですが,その順位構造が,上図と似ているような気がします。

 仮に,両者が正の相関関係にあるとしたら,理科の授業の有様が,生徒の理系志向に影響することが示唆されることになります。

 長くなりますので,今回はこの辺で。次回に続きます。

2012年11月7日水曜日

父親の職業を知らない生徒

 閑話休題。前々回の記事では,15歳の生徒のうち,将来の志望職業が定かでない生徒の比率の国際比較をしました。日本の値は21.4%で,PISA2006の対象国(56か国)の中で2位であることを知りました。

 まあ,15歳の時点で志望職業を明確にせよというのは無理な注文なのかもしれませんが,わが国の値が国際的にみて上位であるのは看過できることではありますまい。

 この点についてまずいわれるのは,義務教育段階における職業教育が脆弱なのではないか,ということです。しかるに,学校教育の外側にも要因はあると思います。前々回の記事の最後では,労働モデルの喪失という点を指摘しました。


 上図は,わが国の就業者の就業形態が,昔と比べてどう変わったかを示したものです。ソースは,総務省『国勢調査』です。戦後初期の頃では,自営業ないしは家族従業が全体の6割を占めていました。しかるに2010年現在では,ほとんどが雇用者です。今日では,就業者の8割以上が,自宅から(遠く)離れた職場で働いているとみられます。

 今の子どもは,家庭において,親が働く姿を目にすることがほとんどなくなっています。目にするのは,夜や休日に疲れてゴロ寝する親の姿ばかり・・・。こういうことはザラでしょう。親の職業を知らないという生徒もいます。こういうことが,生徒の職業意識の未成熟をもたらしているといえないでしょうか。今回は,この仮説を検討してみようと思います。

 まず,父親の職業を知らないという生徒の比率を明らかにしてみましょう。PISA2006の生徒質問紙調査のQ8aでは,対象の15歳の生徒に対し,父親の職業を尋ねています。職業の名称を記入してもらい,それを後から分類するアフターコード形式です。私は,以下の2つのコードが振られた回答の比率に注目しました,番号は,コード番号です。

 7504 Do not konw (分からない)
 7505 Vague (会社勤めなど,記述が曖昧で分類のしようがないもの)

 上記調査のローデータを分析し,この2つに括られる回答が有効回答全体のどれほどを占めるかを計算しました。ローデータは,下記サイトより得ています。
http://pisa2006.acer.edu.au/downloads.php

 日本の場合,上記のQ8aに有効回答を寄せた生徒は5,475人です。このうち,「分からない」は204人,「曖昧」は621人。両者を足して825人なり。したがって,日本の15歳生徒のうち,父親の職業を明確に知らない者の比率は,825/5,475=15.1%と算出されます。およそ7人に1人です。

 私は,PISA2006の対象となった57か国について同じ指標を計算し,高い順に並べてみました。下図をご覧ください。


 日本の値は,国際的にみて2位です。父親の職業を明確に知らないという生徒の率が,国際的にみても高いことが知られます。

 さて,上図の各国の値は,前々回の記事でみた生徒の志望職未定率とどういう関係にあるのでしょうか。おそらくは,父の職業を知り得ていない生徒が多い国ほど,将来の志望職が定かでない生徒が多いのではないかと思われます。はて,実情は如何。下図は,志望職未定率が出せないカタールを除いた,56か国のデータを使った相関図です。


 予想通りの結果です。父の職業を知らない生徒の率が高い国ほど,志望職未定率が高い傾向です。相関係数は+0.551で,1%水準で有意です。わが国が,右上に位置しているのも気がかりです。

 生徒の職業アイデンティティの形成に際しては,学校における職業教育のみならず,家庭での親の影響も大きいのではないかと推測されます。

 ところで,日本の生徒で,父親の職業を知らない者が多いのはなぜでしょう。職住分離というような客観的な条件によることは確かでしょうが,わが国と同じくらいそれが進行している他の先進諸国では状況が異なることから,この面ばかりを強調することはできますまい。

 家庭において,日頃親が自分の職業のことについて子に話すか,働くことについて親子が会話を交わすか,というような要因も大きいものと思われます。父親の職業を答えられない生徒が多いのは,わが国の家庭が,内実を伴わない「ホテル家族」のようなものになっていることを示唆しています。キャリア教育を広義に捉えるなら,家庭のおいてもやってもらうことはありそうです。

2012年11月6日火曜日

図書館の有効利用のすすめ

 別題挿入。読書の秋ですが,書店に足を運ばれる方も多いと存じます。面白そうと手にとったものの,値段をみると「・・・」。こういうことって,結構ありますよね。

 そういうあなた。図書館を利用していますか。過日,書店で面白そうな新書の新刊をみつけたのですが,買うのはキツかったので,図書館にリクエストしたところ,10日ほどで購入してくれました。


 図書館にない本は,リクエストすれば迅速に取り寄せてくれます(漫画,参考書等は不可)。以前は,興味ある本は迷わず買っていたのですが,最近は金銭的にキツくなってきたので(becase 奨学金返済),このサービスをよく使っています。

 リクエストは,図書館のHP上で可能。わざわざ出向く必要はありません。到着の連絡も,電子メールでしてくれます。

 話題本の場合,数十人待ちということもありますが,上記の2冊については,希望者がいなかったので,即座に私の手元に回ってきました。感動しています。

 新刊本でも,運が良ければ10日ほどで借り出すことができます。図書館のこうした機能を存分に利用しようではありませんか。それは,向こうも望んでいるところです。今日の教育社会学の授業では,学生さんにこういうことをお話した次第です。本を薦めると,返ってくるのは「カネがありません」という反応ばかりなので・・・。

2012年11月5日月曜日

15歳生徒の志望職業未定率の国際比較

 前回は,15歳生徒の教員志望率の国際比較を行いました。日本の場合は6.8%。でも考えてみれば,15歳の時点で将来の志望職を明言できるなんて,結構スゴイと思ったりします。私などは,どうだったかなあ。

 現代日本では,青少年の自立の危機がいわれています。それは,職に就きたくても就けないという労働市場の問題と,青少年の志望職業の不明確さという問題の2つを含んでいます。前者は外的要因,後者は内的要因といえましょう。

 ここで注目するのは後者です。今回は,15歳の青少年のうち,志望職業が未定という者がどれほどいるかを明らかにしてみようと思います。また,わが国の国際的な位置も示します。

 前回用いたPISA2006の生徒質問紙調査では,Q30において,「30歳あたりの時点で,どのような職業に就いていたいと思うか」と尋ねています。対象は,15歳の生徒です。わが国でいうと,高校1年生です。

 この設問では,職業の名称を記してもらい,それを後から分類するアフターコード形式がとられています。私は,以下の2つのコードを振られた回答が,有効回答全体のどれほどを占めるかに関心を持ちました。数字は,コード番号です。コードブックは,下記サイトでみれます。
http://pisa2006.acer.edu.au/downloads.php

 9504  Do not konw (分からない)
 9505  Vague (よい職業,安定している職業,給料がいい職業など,曖昧な記述)

 私は,上記サイトから,回答コードが入力された段階のローデータをダウンロードし,自前の分析を行いました。57か国,39万8,750人の大規模データです。

 日本の場合,上記のQ30に有効回答を寄せた生徒は5,132人です(有効回答とは,無回答・無効回答を除いたものです)。このうち,「分からない」という回答は376人,「曖昧」と判断される回答は721人となっています。両者を足すと1,097人。したがって,日本の15歳生徒の志望職業未定率は,1,097/5,132=21.4%と算出されます。5人に1人です。
 
 これだけでは「ふーん」ですが,国際比較をすることで,この値の性格を知ることができます。私は,同じやり方で,カタールを除く56か国の15歳生徒の志望職業未定率を計算しました。下図は,値が高い順に各国を並べたものです。わが国と主要先進国,そしてお隣の韓国のバーには色をつけています。


 56か国で値が最も高いのは,中欧のクロアチアで24.7%です。日本は,それに次ぐ2位となっています。他の先進国はというと,独は「中の上」,米英は「中の下」,そして仏は「下」というところです。

 注目されるのは,お隣の韓国において,15歳の生徒の職業志望が明確であることです。未定というのはわずか2.7%しかいません。韓国は,日本と同じく受験競争が激しい国であり,将来のことを考えもせず,ただ闇雲に受験勉強に励む生徒が多いと思っていましたが,そういうことでもなさそうです。

 ちなみに韓国の生徒の志望職No1は,細かい小分類でいうと,"Decorators & commercial designers"です。和訳すると,室内装飾者・商業デザイナーでしょうか。志望者数は265人で,有効回答全体の5.3%に相当します。

 ひるがえって,海を隔てた日本では,5人に1人が志望職未定というお寒い状況なのですが,未定率が高いのは,どういう属性の生徒なのでしょう。性別,在学している課程別に率を出してみました。後者の課程は,高校普通科,高等専門学校,および高校専門学科の3カテゴリーからなります。


 15歳の生徒全体では未定率は21.4%ですが,属性別にみると,変異がみられます。性別では,女子よりも男子で少し高くなっています。課程別にみると,高校専門学科の生徒の志望職未定率がことに高くなっています。26.2%,4人に1人です。

 商業科や工業科のような専門学科では,生徒の志望職は明確であるように思われるのですが,現実はさにあらず。技術者になりたいから工業科に入る,ファーマーにないたいから農業科に入るというのではなく,成績の上で仕方なくというような,不本意入学者が多いものと推測されます。残念なことですが,大学進学規範に依拠する,高校教育の階層的構造はまだまだ健在であることをうかがわせる統計です。

 さて,今回の記事で明らかになったのは,わが国の15歳生徒の志望職未定率は21.4%であること,その値は国際的にみて高いことです。このことは,義務教育段階におけるキャリア教育を充実させる必要があることを示唆しているように思います。

 誤解されがちですが,近年重視されているキャリア教育というのは,高校段階以降でなされるのではありません。キャリア教育に関連する答申の類をみていただければ分かりますが,キャリア教育とは,幼児期から高等教育段階まで,発達の段階に即して,体系的に実施されるべきものです。
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/1301877.htm

 15歳の時点で,全ての生徒が将来の志望職を明確にすべきであるなどと主張するつもりはないですが,わが国では,青少年のアイデンティティが遅れがちであるという現実は,しっかりと直視しなければなりますまい。
 
 むろん,この問題は,学校における職業教育の脆弱さだけに帰されるものではありません。現代日本では,職住分離が進行しており,働く親の姿を子どもが目にする機会が減ってきています。家で目にするのは,休日や夜に疲れてゴロ寝する父親の姿ばかり・・・。こういうことがザラでしょう。労働モデルの喪失です。

 次回は,この点に関連して,親の職業を知らないという生徒の比率に注目してみようと思います。

2012年11月3日土曜日

15歳生徒の教員志望の国際比較

 くさい言い方ですが,教員というのは,次代を担う子どもの育成に関わることのできる,素晴らしい職業であると思います。この職業を希望する人間は少なくないことでしょう。

 最近は,「先生は大変だよ」というようなことがいわれていますが,アイデンティティを模索する青年期の只中にある15歳の生徒のうち,教員を志望している者はどれほどいるのでしょうか。

 OECDのPISA2006では,生徒質問紙調査のQ30において,「30歳あたりの時点において,自分はどのような職業に就いている(いたい)と思うか」と尋ねています。調査対象は,15歳の生徒です。日本の場合,高校1年生です。

 調査対象の生徒に職業の名称を書いてもらい,それを後から分類する,アフターコード形式がとられています。私は,"TEACHING PROFESSIONALS"に括られる回答がどれほどあるかに注目しました。訳すと,教育専門職でしょうか。

 この中には,小・中・高の教員のほか,特別支援学校教員,大学教員,視学官,および他の教育専門職も含みます。小学校教員,中学校教員というように,回答を細かく仕分けている国もありますが,わが国は残念ながら,"TEACHING PROFESSIONALS"という大枠において一括されてしまっています。そこでやむなく,この大カテゴリーの比重に注目することとした次第です。

 まあ,"TEACHING PROFESSIONALS"の大半は小・中・高の教員ですので,このカテゴリーに括られる回答をした生徒をもって,教員志望者とみなしても大きな問題はないでしょう。

 仔細は,PISA2006の生徒質問紙調査のコードブックをみたていただきたいのですが,私がここにて教員志望者とみなすのは,回答にふられたコード番号が2300~2359の生徒です。
http://pisa2006.acer.edu.au/downloads.php

 私は,本調査の個票データを上記サイトからダウンロードし,独自の分析をしました。57か国,39万8,750人の大規模データです。

 さて,わが国の高校1年生のうち,上記のQ30に有効回答を寄せたのは5,132人です。そのうち,教員志望者は350人となっています。よって,15歳生徒の教員志望率は6.8%となります。およそ15人に1人です。

 国際比較によって,この値を性格づけてみましょう。主要先進国,北欧のフィンランド,そしてお隣の韓国と比べてみます。下表をご覧ください。aの全体とは,無回答や無効回答を除く,有効回答をした生徒の数です。「分からない(Do not know)」という回答は,有効回答の中に含まれます。


 ほう。韓国の生徒の教員志望率は20.8%と,群を抜いて高くなっています。この国では,15歳生徒の5人に1人が教員を志望しています。儒教国家のゆえでしょうか。その次が英仏,そして日本となっています。

 アメリカとドイツは,教員志望率が低くなっています。5%未満です。2月14日の記事でみたように,アメリカにおいては,民間に比して教員の給与がべらぼうに低く,かつ勤務時間も長いのですが,こうした待遇面の要因もありそうです。

 わが国においても,教員の待遇が劣悪を極めていた大正期の頃では,若者の教員志望率はさぞ低かったことと思います。教員になるのを嫌がり,自殺にまで至ったケースがあるくらいなのですから(1922年6月28日,東京朝日新聞)。

 ところで,「子は親の背中を見て育つ」といいますが,親が教員であるかどうかによって,教員志望率は異なるものと思われます。私は某大学で教職課程の講義を持っていますが,「ウチ,親も教師なんすよ」という学生さんが結構いるように感じます。

 おそらく,親が教員という生徒のほうが,そうでない生徒よりも,教員志望率は高いのではないかと思われます。いや,反対でしょうか。親が死ぬほど苦しんでいるのをみて,「教員にだけはなるまい」と意を固めている生徒も多かったりして・・・。

 PISA2006の生徒質問紙調査のQ8aでは,父親の職業を答えてもらっています。Q30と同様,アフターコード形式です。父親の職業についても,"TEACHING PROFESSIONALS"をもって,教員とみなすことにします。

 私は,Q8aに有効回答を寄せた生徒を,父親が教員である者とそうでない者の2群に分けました。以下では,前者をⅠ群,後者をⅡ群といいます。この両群で,教員志望率がどう異なるかをみてみましょう。下表は,日本と韓国のデータです。


 日本でも韓国でも,父親が教員であるⅠ群の生徒のほうが,そうでないⅡ群よりも教員志望率が高くなっています。しかし,両群の差は日本のほうが大きいようです。倍以上の差があります。わが国では,親が教員であるか否かが,子どもの教員志望に影響する度合いが高いといえます。

 では,他国はどうなのでしょう。私は,48か国について,上表と同じ統計を作成しました。下図は,横軸にⅡ群の教員志望率,縦軸にⅠ群のそれをとった座標上に,各国を位置づけたものです。わが国が,全体の中のどこに位置するかを読み取ってください。


  実線の斜線は均等線です。この線より上にある場合,Ⅱ群よりもⅠ群の志望率が高いことを意味します。点線よりも上に位置する国は,Ⅰ群の率がⅡ群の2倍を超えることを示唆します。

 どうでしょう。比較の対象を広げてみても,日本は,親が教員であるかどうかが,子の教員志望に強く影響する社会であるといえそうです。ドイツの場合,全体でみた教員志望率は低いのですが,Ⅰ群とⅡ群の差が殊に大きくなっています。前者の率(15.1%)は,後者(4.0%)の3倍を超えます。

 一方,イギリスのように,反対の傾向を呈している社会があることにも注意しておきましょう。この国では,親が教員でない生徒のほうが,教員志望率が高いのです。

 まとめましょう。わが国では,15歳の高校1年生の教員志望率は6.8%であり,国際水準でみて高くはないですが,親が教員であるか否かによって,値が大きく違います。

 これをどうみたものでしょう。わが国では,「教員は大変だ」と連呼され,離職率や精神疾患率のような客観資料でみてもそうなのですが,教員の親を持った子には,その職業の内的魅力のようなものが肌身を通して伝わる,ということなのかもしれません。

 それは,給料がどうだとか,離職率がどうだとかいう,外側からの観察ではうかがい知ることができないものです。これは,誇ってよいことなのではないでしょうか。逆をいうと,実線の斜線よりも下にある国では,「教員の親を持ってみると,嫌な部分が目についてくるよ」ということなもかもしれません。こちらも,外的な統計指標では分からないことです。

 ここでいう教員の「内的魅力」というのは,統計では把握することができますまい。親が教員という学生さんに,「内的魅力」が何たるものか,聞いてみようかしらん。

 今回は,15歳生徒の教員志望率を出してみましたが,他の職業の志望率も計算することができます。公務員志望率,社会福祉関係職志望率などの国際比較も面白いと思います。

2012年11月1日木曜日

高齢者犯罪

 田中真紀子文部科学大臣が,国政に出ようとしている石原元都知事を「暴走老人のようだ」と皮肉っています。
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20121026-OYT1T00835.htm

 「暴走老人」とはよく言ったものですが,この熟語は,藤原智美さんの『暴走老人』(文藝春秋,2007年)という本によって広められたものです。キレやすく暴力的な高齢者の様がリアルに描かれたノンフィクションです。

 私も以前,床屋でこの手の「暴走老人」を見かけたことがあります。順番待ちにしびれを切らしたおじいさんが,「急いでるんだよ,時間がないんだよ」と店員に怒鳴り散らしていました。その声が,また店内によく響くこと。ビンビンです。

 2012年現在で65歳の高齢者は,おおよそ1948年生まれということになります。20歳になるのは,1968年。学園紛争などで,若い頃大暴れした世代です。犯罪統計をみても,当時は,若者の暴力犯罪の発生率がピークであった頃です。今の高齢者は,暴走性を内に秘めた世代といえなくもありません。

 店員を怒鳴りつけるくらいならまだいいですが,それを通り越して,犯罪行為を働いてしまう高齢者はどれほどいるのでしょう。2011年の警察庁『犯罪統計書』によると,同年中に刑法犯(交通業過除く)で警察に検挙された60歳以上の高齢者は70,054人となっています。この数を,同年の60歳以上人口で除して,犯罪者出現率にしてみました。分母の人口の出所は,総務省『人口推計年報』です。
http://www.npa.go.jp/toukei/index.htm

 下表は,60歳以上の犯罪者出現率を,14歳以上のものと比較したものです。以下では,前者を高齢者,後者を全体といいます。犯罪者出現率は,犯罪率と略すことにします。


 高齢者の犯罪率は,全体よりも低くなっています。まあ,若者のほうが犯罪率が高いのは常ですから,当然の結果です。しかしながら,犯罪率の時代推移をたどってみると,近年の高齢者のヤバい状況が浮かび上がってきます。


  上表は,先ほど計算した犯罪率を,1970年から5年間隔で跡づけたものです。全体の犯罪率は減少の傾向ですが,高齢者はその反対です。とくに最近の伸びが顕著で,この11年間で9.8から17.3へと1.8倍にもなっています。

 その結果,高齢者の犯罪率は全体に接近してきています。右端のα値は,高齢者の犯罪率が全体と比してどうかを数値で表したものです。40年前の1970年では,高齢者の犯罪率は全体のおよそ7分の1でしたが,2011年現在では3分の2にまでなっています。

 高齢者の犯罪率は,絶対水準のみならず,全体と比した相対水準でみても高まっていることが知られます。最後に,この様相を統計図で可視化しておきましょう。下図は,横軸にα値,縦軸に犯罪率をとった座標上に,高齢者の各年の値をプロットし,線でつないだものです。絶対水準と相対水準の双方から,高齢者の犯罪率の変化を読み取れる仕掛けになっています。


 どうでしょう。1990年代以降,右上がりの傾向が明瞭です。とくに,2000年と2011年のドット間の距離が大きくなっています。このことは,今世紀以降,高齢者犯罪の増加が著しいことを示唆しています。

 ところで,高齢者犯罪の多くは,万引きのような非侵入盗です。生活に困って,スーパで缶詰を失敬という類の罪がほとんどであると思われます。衣食住が保証される刑務所に入れてもらおうと,わざと無銭飲食を働く輩もいるとか。

 現在,刑務所は福祉施設のようになっているといいます。刑務所人口の高齢化が進んでいることは,2月24日の記事でみた通りです。この点は,年金制度のような生活保障制度の有様と深く関わっています。

 しかるに,冒頭で述べたような「暴走老人」の増加をほのめかす統計もあります。暴行犯の激増です。暴行罪で検挙された60歳以上の高齢者の数は,2000年では524人でしたが,2011年では4,599人にまで増えています。この期間中で,8.8倍になったわけです。全罪種の増加倍率(2.7倍)をはるかに上回っています。

 若い頃大暴れした経験を持つ世代が,職をリタイヤして暇を持て余すようになったら,どういうことになるか・・・。大学は,血の気たぎる若者を収容することで,社会維持機能に貢献しているといいます。10月27日の記事でみたように,大学等で学ぶことを希望している高齢者は結構います。彼らのこうした生涯学習欲求を叶えるような制度設計が求められるでしょう。

 ほか,絵でも軽目の運動でも,何かやることを見つけてもらうことが有益です。ブログを勧めるなんてどうでしょう。人間は「表現する生き物」といいますが,高齢者の秘めたる表現欲求を侮ることはできますまい。

 最近,自分の伝記を出してくれと,原稿を出版社に持ち込んでくる高齢者が多いと聞きます。当然,大半が自費出版となるのですが,ブログでの公表だったらタダですよ。こういうインターネットの恩恵を知らない高齢者が多いとしたら,勿体ない話です。

 これから先,社会のIT化と高齢化が同時進行していきます。こういう状況のなか,高齢者に対する情報教育の重要性が増してくることになるかもしれません。