2012年4月14日土曜日

大正期における教員の結核

「教職危機の歴史研究」といったらおこがましいですが,昔の教員の苦境や悩みに関連する新聞記事を採集しています。

 昨日から今日にかけて,大正時代(1912~1926年)の東京朝日新聞の復刻版をくくってきました。今になって気づいたのですが,この時代のものは原寸サイズなので,縮刷版とはいわず「復刻版」というのですね。月単位に綴じてあるのですが,これが重いのなんの。必要な号を棚から取り出し,目ぼしい記事のコピーをとり,また棚に戻す・・・。これのくり返しですが,相当の重労働です。すっかり筋肉痛になりました。

 さて,この時代の新聞をみると,教員の生活難について報じた記事がやたらと目につきます。以下は,スクラップした記事の写真です。


 左側は1918年(大正7年),右側は1926年(大正15年)10月13日の記事です。当時は好景気でしたが,同時に物価の高騰(インフレ)も激しかった頃です。民間はそうした状況に機敏に反応し,従業員の給与を引き上げたのですが,悲しいかな,教員はそうではありませんでした。

 物価が上がるのに給与はそのまま。これでは生活難に陥るはずです。その程度といったら,「食物さへ十分でな」く,弁当は「パン半斤」が当たり前,さらには「一家離散」までが起きるほどであったようです。民間に比べて給与が安い,贅沢ができないというような相対的貧困ではなく,生存が脅かされる絶対的貧困の域にまで達していたことが知られます。

 これではと,1920年(大正9年)に公立学校職員年功加俸国庫補助法,公立学校職員年功加俸令が制定され,給与アップが実現したのですが,それによって教員の生活苦が解消されたわけではなかったようです。事実,右側の記事はそれよりだいぶ後の大正末期のものです。

 こうした状況のなか,病気を患う教員も多かったことでしょう。右側の記事では,教員に病人が多いことがいわれています。現在では教員の精神疾患が問題になっていますが,当時の教員の主な病気とは何だったのでしょうか。

 それは結核です。右側の記事の上段に,「肺患」という太字の語句がみられます。昔は不治の病として恐れられていた結核ですが,この病は,とりわけ教員の間で猛威を振っていたようです。時代は少し上がりますが,1913年(大正2年)2月25日の東京朝日新聞に,明治末期の教員の死亡統計が掲げられています。私はこれをもとに,以下の表をつくってみました。


 注目されるのは,教員(ほとんどが小学校教員)の死因全体に占める結核の比重の高さです。教員では,全死因の3割を結核が占めています。厚生省『人口動態統計』から分かる,同年の人口全体の同じ数値(1割)に比して格段に高くなっています。
http://www.stat.go.jp/data/chouki/02.htm

 結核による死亡確率(c/a)は全人口のほうが高いのですが,高齢層を除いた就労人口を比較対象に据えた場合,教員の結核死亡率のほうが高くなるのではないかと思われます。

 ちなみに,1913年(大正2年)2月16日の東京朝日新聞の「職業と病気(2)」という記事では,26の職業について,全死因に占める結核の割合が明らかにされています。上表と同様,1909年の統計です。男性でみると,教育に関する業の数値(31.3%)は,銅板及び石版,木版等の彫刻,印刷業(44.0%)に次いで2位となっています。

 教員の結核は,当時かなり問題視されていたようであり,新聞紙上でも関連記事が多くあります。①「小学教師と結核」(1911年5月10日,東京朝日新聞),②「小学教師の肺病:世界一の高率」(1912年6月3日),③「恐るべき子供の結核:学校や家庭で注意せよ,小学教員に結核患者が多い」(1917年3月30日),など。生身の子どもを相手にする教員,とくに低年齢の児童を受け持つ小学校の教員に,伝染性の高い結核の罹患者が多いことは,ただならぬことでした。

 なぜ,教員(とくに小学校教員)に結核が多かったのでしょう。銅板及び石版,木版等の彫刻,印刷業の場合,粉じんを吸いやすい環境での就労であることから,結核の罹患率が高いのは分かるのですが,教員については如何。

 この点について,上記の②の記事では,1)其業務煩雑にして健康に可ならざる為他より伝染し易く,2)而も同症に犯され乍ら比較的勤め易き為退職する者少く,3)給料薄きため栄養不良に陥り易く,4)又向上心有る者は争ふて中等教員たらんとし同検定試験を受けんと過度の勉強を為す者多きに因る,といわれています。

 過労や薄給に加えて,「ガンバリ過ぎ」の状態に陥りやすい職業上の性格も指摘されています。教員の場合,職務の際限というものがありません。石を*個積めば終わりというのではなく,完璧を求めるなら,職務の範囲は際限なく広がってしまいます(自己研鑽,勤務時間外の個別指導・・・)。

 こうした職業上の性質は,現在では精神疾患やバーン・アウトにつながっていますが,昔は,薄給による栄養不良のような条件と相まって,結核という不治の病に連動していたようです。

 日本の教員史研究では,大正期は「生活難の時代」であったということで,諸家の見解が一致しているようですが,「結核の時代」という特徴づけもできるのではないかと存じます。

 さて,次は明治期ですが,この時期になると,新聞記事の記事総覧がありません。よって,朝日新聞なら「聞蔵」というオンラインデータベースで,「教員&悩み」というようなキーワードで記事検索をすることになりそうです。

 でも新聞記事に当たるのはそろそろ飽きてきたので,趣向を変えて,昔の主な教育雑誌に目を向けてみようと思います。恩師の陣内靖彦教授の『日本の教員社会-歴史社会学の視野-』(東洋館出版,1988年)の232頁によると,明治・大正期の主な教育雑誌として,『帝国教育』,『日本之小学教師』,『小学校』,『内外教育評論』などがあるそうです。

 主な読者層である教員の投稿記事(生の声)も盛りだくさんとのこと。上記の陣内先生の著作でも,自身の悩みや不平・不満を訴える教員の投稿記事が数多く紹介されています。この手の記事を狩猟していこうと思います。『教育関係雑誌目次集成』(日本図書センター)にて目ぼしい記事を探し,現物に当たる,という段取りになりそうです。

 目次集成は都立多摩図書館,雑誌の現物は国立国会図書館で閲覧することになるだろうな。うーん,地元の図書館で軽い気持ちで新聞の縮刷版をくくっていたのが,だんだん本格的になってきました。これを機に,歴史研究の方法を体得してみようと思っております。